校閲記者として仕事をはじめてもうすぐ1年。入社前に思い描いていた自分の姿になれているかと問われれば苦笑するほかないものの、仕事自体には慣れてきました。1年の節目を迎えるにあたって「初心を思い出せ」という自戒の意味も込めつつ、自分の就職活動を振り返ってみたいと思います。必死だった当時の自分を振り返り文章にするのは気恥ずかしいですが、これから就活を迎える方にとって、少しでも参考になれば幸いです。
【久野映】
目次
誤りの重大さ、身をもって痛感
「校閲」の仕事を意識するようになった原点には、ある苦い記憶があります。
中学生の頃からなんとなく「新聞」への憧れを持っていた私は、大学で華やかなサークルの勧誘には脇目も振らずスポーツ新聞サークルに入会。大学の体育各部の試合などを取材しインターネット上や月1回発行の紙面で記事などを発信するのが主な活動内容で、取材にカメラ、記事執筆と、あこがれだった記者活動にのめりこんでいきました。ジャーナリズムの副専攻の授業も取ってみたりして、将来記者になるのもいいかもと思っていた時期もありました。
しかし、忘れもしない大学1年生の秋。私が書いた記事に関係する部分に重大な誤りが見つかりました。関係先への謝罪、紙面上でもおわび・訂正の掲載――。メディアにとって「誤り」というものがどれだけ大きいものか、身をもって痛感しました。それと同時に、新聞に載っている情報が毎日当たり前に正しいこと、新聞で使っている日本語が毎日当たり前に適切であることが、どれだけすごいことなのかを感じた瞬間でもありました。
大学3年時には自身の大きな反省を込めて、校閲の責任者に立候補しました。プレッシャーもあり、落ち込むことも記者との衝突もあったけれど、新聞紙面ができあがっていく現場で、一つ一つの記事や言葉と悩みつつ向き合う時間が純粋に楽しいと感じるようになってきました。
「なんと奥深く、おもしろい仕事だろう」
そんな時に毎日新聞のイベントで校閲に関する講演があることを知り、自分の活動の参考になればと何気なく足を運んでみました。受付で周りを見渡すと、参加者は皆使い込まれた自前の辞書を小脇に抱えているような明らかな「玄人」オーラを漂わせた人ばかりで、逃げ帰りたいような気持ちになったことを鮮明に覚えています。しかし講演が始まると「なんと奥深く、おもしろい仕事だろう」と、居心地の悪さを忘れるほどに引き込まれていく自分がいました。
この講演を担当していたのが、現在の上司である新野信記者。講演後「もっと話を聞きたい」と思ったものの、ド素人の学生で明らかに浮いていた私は気後れしてしまい、結局その日は何もできないまま帰りました。
それでも、新聞は「当たり前に正しい」のではなく、新聞が正しくあるために日々奮闘している人々がいるのだということは、当時の私にとって大きな気付きでした。それと同時に、これまでぼんやりと「新聞に携わる仕事に就きたい」と考えていた私が、「校閲記者」という仕事を意識するきっかけとなった1日でした。
「この会社に入りたい」と思い切って…
キャンパスを歩く同級生の髪も服も黒くなってきた2月。サークルを引退し、本格的に就活と向き合う時期がやってきました。夏ごろからインターンに参加している友人たちを尻目にサークルざんまいで「就活出遅れ組」を自認していた私は、就活とはこんなにもやることがあるのかと驚くばかり。連日開催される会社説明会の合間を縫ってエントリーシート(ES)を書いて、WEBテストの勉強も――。周りに流されるように「自己分析」をしてみたり、さまざまな業種の会社説明会に足を運んだりもしたものの、あの日の講演ほど心を揺さぶられるものに出会うことはありませんでした。
私が就活をした年、新卒で校閲職の募集を行っていた会社は新聞社・通信社では片手に収まるほどしかなく、採用人数もそれぞれ数人程度。そんな狭き門に志望をしぼってしまっていいのだろうかと悩んだものの、中途半端にやっても仕方ないと腹をくくり「校閲記者になるため」の私の就活が始まりました。
その中で最も記憶に残っているのが、3月上旬に参加した毎日新聞社の校閲記者志望者向けの会社説明会。この説明会でベテラン校閲記者として登壇されたのが、あの新野記者でした。話を聞きながら自分の中で、「この会社に入りたい、この人たちの仲間になりたい」という思いがさらに強くなっていくのを感じました。説明会終了後。「今度こそ」と思い切って新野記者に話しかけ、その後連絡先も教えていただきました。初対面の人と話すのが苦手な私が、就活の中で自分から声をかけに行ったのは、後にも先にもこのときだけでした。
誤報は校閲でどこまで防げるか?
その後も何度かメールでやりとりし、細かな疑問点についても丁寧に教えていただきました。このやりとりを通して、就活生という立場で「校閲」という仕事について理解を深めようとする上で、自分1人では決してたどり着くことができなかったであろう考え方にも触れることができました。
たとえば、何年か前に他社で過去の一連の報道を取り消す事態に至った騒動を念頭に、自社の独自スクープなどの場合、校閲の仕事における「ファクトチェック」というのは何をどこまでするのかという質問をしました。それに対し「取材源の秘匿というジャーナリズムに携わるものにとっては絶対的に重要な原則があり必要最低限の人以外はニュースソースに接することがないため確認できないこともありますが、もし仮に原稿に疑問点があった場合は出稿部のデスクを通じて確認できるところまで行いますし、これまでの問題の経緯や関係者の過去の発言といったものは記録がある限りすべて調べます」「しかし、取材源が虚偽の証言をし、取材記者もそれを見抜けなかった場合は、確認するのは非常に困難で、誤りを指摘することはおそらく不可能だと思います」などと具体的に、新野記者の考えも交えつつ教えていただきました。
一方、同じ頃に特に見出しの表現などが問題となって誤りとされた別の報道については「校閲でも防ぐことができた可能性があると考えています。検証記事によると、校閲記者が見出しについて疑問を呈しているにもかかわらずそれがほとんど考慮されないまま紙面化されてしまったとありました。仮に、これが考慮されていれば違う結果になったかもしれません」。そして「毎日新聞では、出稿部や整理記者などが校閲の指摘を受け止め、大抵は違う見出しにするか記事を書き換えるなどの対応が取られると思います」とも。
特殊な例かもしれませんが、少しの言葉の使い方や見出しのつけ方に対して校閲的な視点から重大な誤りや誤解を防ぐことができる可能性もあるという、今までになかった視点も得ることができました。
こうしたやりとりを通して新聞の校閲という仕事への理解を深められたからこそ、のちの面接などで仕事に対する理解や考えを問われた際も、自分の思いとからめながらきちんと話すことができたのだと思います。
「この職場で働けてよかった」
振り返ってみると、サークル活動でのあの大失敗、3年生の夏にあの講演に思い切って参加したこと、会社説明会で勇気を出して新野記者に話しかけたこと……。何か一つでも欠けていたら、私はこの仕事には出会っておらず、この文章を書くこともなかっただろうと思います。思い切って一歩を踏み出したあのときの自分と、そしてそれに応えてくれる人がいたことへの感謝を忘れず、日々の仕事に取り組んでいきたいと思います。
先日仕事中に、こんな一コマがありました。東京五輪・パラリンピックの「多様性」をテーマにした記事の中で、外国にルーツを持つ日本代表選手について「日本人」と表現している文章。誤りではありませんが、毎日新聞の用語のルールとして「日本選手」に統一するという取り決めがあるため、私はそれに倣って「日本選手とすべきか」と、その日の担当デスクだった新野記者に相談しました。新野記者は「確かに統一のための取り決めはあるけれど、この記事の趣旨としてあえて『日本人』と書くことで多様性を強調しているのではないか」と。ルールにとらわれ書き手の意図を想像できていない自分に気づかされました。
まだまだ至らないことばかりですが、このように日々学ぶこと・感じることがあり、「この職場で働けてよかった」と感じる出来事に出会います。この職場で働き始めてもうすぐ1年。いつまでも新人気分ではいられませんが、初心を忘れず、これからも目の前の仕事に真剣に向き合っていきたいと思います。
こんなに熱心な学生だから、どこで働くことになっても良い校閲記者になるだろうと思っていましたが、縁あって同僚として働くことになりました。一緒に働くなかで、1行ずつしっかりと確認しながら丁寧に原稿を読む様子を見たり、新人らしい疑問について尋ねられたりするたびに、こちらも校閲記者として初心に帰らないといけないなと思わされます。
何年後かに、久野記者の講演を聞いて校閲記者を目指す人が出てきたらいいなと思っていましたが、このブログを読んで校閲記者を目指す人が一人でも多くなればうれしく思います。
新野信(しんの・まこと) 2002年入社。校閲センター東京グループデスク。入社以来、校閲記者として勤務している。学生時代の専攻は日本近代史で、入社するまで言葉やジャーナリズムについて専門的に勉強した経験はなかった。