点検中のゲラに出てきた「鋭い目線」という言い回し。すぐに「目線→視線」とする直しを書き込みましたが、この二つの語の違いを説明しろと言われたら少し面倒だな、と思いました。
もちろん、「『鋭い視線』とは言うが、『鋭い目線』とは普通は言わない」と言って押し通すことはできるでしょう。毎日新聞の記事データベースを見ると、記事データのある1987年以降、東京本紙で「鋭い視線」が登場した記事は207件。「鋭い目線」は3件のみです。普通は使わない表現だ、という根拠になろうかと思います。
しかし国語辞典には、「目線」を「視線」と明確には区別しないものもあります。例えば広辞苑(第6版)。「目線」を引くと「(映画・演劇・テレビ界の語)視線。見る方向」とのこと。三省堂国語辞典(第7版)も「〔もと、演劇・テレビ用語〕視線」としており、こうした辞書を見た人から、「視線」と「目線」は同じ扱いでいいだろう、と言われると困りそうです。「鋭い目線」も許容すべきなのでしょうか。
辞書の中で説明が分かりやすいと感じたのは明鏡国語辞典(第2版)です。第1義には「映画・演劇などで、演技として行われる、目の方向や位置」とあります。
要するに、「目線」の元の使われ方としては、目の向け方に焦点を合わせた言葉であって、本当にものを見ているかどうかはあまり問題ではなかった、ということでしょう。
「『目線』の主体が何を見ているか」ではなく、あくまでも周囲から見た様子として「『目線』の主体が何を見ているように見えるか」が大事だということです。
特徴ある語釈で知られる新明解国語辞典(第7版)は、「目線」について「俗に『視線』の意でも用いられるが、『目線』は目の動きに応じて顔も動かす点が異なる」と説明しています。「顔も動かす」というところに、「何を見ているか」よりも「何を見ているように見えるか」に意識を向けた「目線」という語の性格がうかがえます。
一方の「視線」は、「目の中心と見ている対象とを結ぶ線。見つめている方向」(大辞林・第3版)のような説明が一般的ですが、大辞泉(第2版)には「他人を、また、他人が見る目付き。ある気持ちの表れた目付き」という説明があります。
今回のケースでは「鋭い」という形容詞がつく以上、ある種の感情がこもっていることは間違いありません。このような場合にあっては、もともと見かけ上の目の配り方を意味してきた「目線」よりも「視線」の方がふさわしいという感覚が、なお生きているのではないでしょうか。「鋭い目線」は使いにくいと感じるのも、自然な言語感覚と考えてよさそうです。
【大竹史也】