ノーベル化学賞を受賞した故・下村脩(おさむ)さんら、「脩」を名前に持つ人は多いのですが、同じように人名に使われる「修」とはどう違うのでしょう。辞書に両者は「通用」とありますが、どういうことでしょうか。
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辞書には「通用」とあるが
以前、漢字の「修」と「脩」について質問を受けました。似ているけれど、同じ字の異体字なのか、と。「別の字です。辞書には『古くから通用する』とも書いてありますけど」と答え、今でもそう答える以外にないとは思うのですが、この二つの字には何となく扱いにくさを感じています。
ところで「通用する」と書きましたが、これは字典以外ではあまり見ない、独特の言葉の使い方です。「相通じて用いられる」というほどの意味。本来は使い分けられていた文字でも、違いの意識が薄れると、同じように使われる場合があるということです。例えば、どちらも「タン」と音読みする「嘆」と「歎」。文字のパーツは違いますが、ともに「なげく」という意味を持ち通用します。そのため当用漢字表制定の際に「歎」が採用されず、現在ではほぼ「嘆」のみが流通しています。今では一般に「知恵」と書かれる「ちえ」には「智慧」の表記もありますが、この二つは熟語を構成する2字ともが通用します。
「脩」は干し肉のことだった
しかし「修」と「脩」の場合、形は一見似ているものの、元の意味は全く違うものでした。漢字の成り立ちは、音を表す部分がともに「攸(ユウ)」で、残りの部分はそれぞれ「彡(さん)」と「月(にくづき)」。「修」が「修飾」「修辞」のように、きれいにすること、かざることを意味するのは、「彡」の持つ「かざり」の意味からとも言われます。一方の「脩」は干し肉のこと。「にくづき」が入っているので納得できるでしょう。「束脩(そくしゅう)」という言葉があります。生徒が先生に納める謝礼のことで、束ねた干し肉に由来するとのことです。
このように異なる意味の2字ですが、17世紀の中国の字書「正字通」には「修脩通ず」とされるなど、区別する意識の乏しい時代が続きます。今の日本では「脩」が使われるのはもっぱら人名で、訓読みなら「おさむ」というのが普通です。この訓も、「学問を修める」などの「修」の用法に由来します。「脩」が「修」の異体字のように思われるのも、無理もないかもしれません。
同じように使われた歴史
宋代中国の文人・政治家の欧陽脩は「日本刀歌」という詩の作者(異説もあります)として日本でも知られますが、欧陽修と表記されることも。名前の文字すら入れ替わりが起こるということで、辞書類にも両様の表記が載せられています。東海大学教授を務めた小林義広氏によると、欧陽脩自身は「脩」を好んで使っていたと思われるが、歴史的には両方の表記が用いられており、それぞれに根拠があるとのことです(「欧陽修か欧陽脩か」、「東海史学」31号所収)。
これほど同じように使われてきた文字でも、例えば現代の人名にあるならば、校閲記者は必ず区別を付けなければなりません。通用する、とはいっても取り違えたら訂正につながります。古人は「そこまで気にしなくても」と苦笑するかもしれませんが、世の中が求めるものは時代と共に変わるもの。今の新聞には厳密な正確さが求められています。
【大竹史也】
(2017年5月6日毎日新聞「校閲発 春夏秋冬」より)