「真逆」は時代小説にも登場し、定着ぶりがうかがえます。それでも一部で「身の毛がよだつ」という反応もあります。「真逆」を掘り下げる後編では、金田一秀穂さんの著書などを引用し、校閲としての対応のあり方を考えます。
ついに時代小説にも「真逆」が登場したか――。毎日新聞連載「青嵐の旅人」を読んで、言葉の変化の奔流をまざまざと目にする思いがしました。「青嵐の旅人」は幕末を舞台にした小説で、新選組による池田屋襲撃が描かれた後の2023年10月18日の262回で「彼の言動に心酔するのとは真逆に、異を唱え続けていきたいという思い」という文が出てきます。
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時代劇にも登場
思い出したのは、やはり新選組を描いた映画「燃えよ剣」(2021年公開)で、土方歳三の恋人、お雪が「真逆」という言葉を発していたことです。司馬遼太郎さんの原作にはもちろん出てこない、オリジナルのせりふです。
たしか、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも、源実朝は源頼家とは性格が「真逆」というセリフがあったと思います(違っていたらぜひご一報を)。
「真逆」は2000年以降に広まった新語ですが、それを知って知らでか、当たり前の言葉のように使う人が増えました。その流れでの時代小説の使用であり、私は違和感よりも「そこまで定着したか」という感慨の方が勝って受け止めました。私は時代小説のファンではないので知らないだけで、日々新作が出るこのジャンルを見わたせば、もっと早い作品で「真逆」は出てきていた可能性もあります。
もちろん、その時代にない言葉を小説に出してはいけないという約束事はないでしょう。しかし、例えば時代小説家、今村翔吾さんは「やばい」という語について、江戸時代から使われたことを知りつつ、「小説の科白(せりふ)の中に書くことも可能である。が、現代語、しかも相当最近の言葉だと勘違いしている人も多く、『時代小説なのに現代語を使うなんて』と思わせてしまうから」「世間での認知度も考慮して書いていかねばならない」と毎日新聞のエッセー「乱読御免」(10月15日)に書いています。
それでも「真逆」は「やばい」とは逆に、歴史は短いのに「やばい」ほど俗語臭がなく、世間での認知度もそれなりにあるため、歴史物でも気軽に(?)使われるようになっているのかもしれません。今回の小説の「真逆」の使用について、今のところ読者から特に反応は来ていないそうです。
マとギャクの音の印象が逆
さて、「前編」では「逆」単独では何か物足りなくなって「真逆」を使うようになったのではないかという考えを述べましたが、もう少し「真逆」を使う人の心理を探ってみましょう。
「前編」にも登場した2003年6月の毎日新聞コラム「読めば読むほど」で、若手の校閲記者は「言葉の響きが少し面白い」と書いています。
しかし、その響きを嫌う人は少なくないようです。2022年4月13日の毎日新聞「みんなの広場」には「『真逆』という言い方に違和感」という65歳の方の投書が載りました。
耳に入る音の響きがきれいではないと感じます。天気予報で「昨日とは真逆の美しい空が広がるでしょう」と言われても「マギャクの空」を美しく思えないのです。
また、X(ツイッター)への投稿では「『ま』の後に『ぎゃ』が来るのがおぞましくて身の毛がよだつので完全に受け付けない」とありました。この「濁音が汚い」ということが嫌われる一因のようです。
でも、現代日本語には濁音が普通にあるというのに、なぜこの音の連なりが敬遠されるのでしょう。
音のイメージを身近な例から解析した「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」(黒川伊保子著、新潮新書)は、まずMの音について、ママ、飯(まんま、めし)、芽、桃など、「中身の充足した状態、満ち足りた」言葉が非常に多いと記します。
gyaの音についてはこうあります。
ギャング、ギャンブル、ギャラクシー、ギャンゴ(ウルトラ怪獣)、ギャラドス(ポケモン)、ギャン(ガンダム)……確かな摑(つか)みのG音を拗音(ようおん)で攪乱(かくらん)したG拗音の発音体験は、つかんで引き摺(ず)りまわすイメージで、暴力的で、かつ華やかだ。
マギャクについての言及はありませんが、マとギャクの印象はまさに全く逆ということです。
日本国語大辞典で見る限り、「まぎゃ」で始まる日本語は存在しません。2版は2000~02年刊行なので「真逆」は間に合わなかったのでしょうが、マギャという音がいかに異様かがわかります。だから日本人の伝統的な音感として嫌われるということは納得できます。
しかし、考えてみれば赤ちゃんが「まんま」と言い「オギャー」と泣く時からマ音もギャ音も獲得していたはずなのに、なぜその組み合わせがなかったのか不思議な気もします。今までなかった音だからこそ、若い人にとっては面白いと使われるようになったのかもしれません。
そういえば、古来の和語には本来濁音で始まる語はほとんどなく、ゴミ、ドブなど汚いイメージの例外があるだけだったということが知られています。しかし「映え」を「ばえ」と言う流行があるように、今の日本人の音感はその伝統からは遊離してしまったのでしょうか。
もっとも「ばえ」の流行は一時的だろうと私は思います。流行語の常として、いい大人も使うようになると若者は反対に使わなくなるからです。しかし「真逆」は流行語としての認識が薄いせいか、普通の日本語として定着していく可能性が拭えません。
「真逆」=「正反対」とは限らない
ちなみに、毎日新聞用語集では「真逆」は「引用や話し言葉を特に生かす場合以外は『正反対』『全く逆』などのように言い換える」と規定しています。この「正反対」の語があるのになぜ「真逆」は広まったか、そもそも「真逆」と「正反対」は同じ意味なのか――について考えましょう。
言語学者の金田一秀穂さんは「正反対」との違いについて「あなたの日本語だいじょうぶ? SNS時代の言葉力」(暮しの手帖社)で独特の見解を述べています。
真逆は正反対と言うほど反対方向ではないように思われる。正反対という時、意見は正対称を描いて反対方向を向いている。180度違う。真逆と言う時は、同じ方向ではないのだが、90度ぐらい違っているくらいでも言えてしまう。異なるだけでなく間違っている、という意味さえ生まれてきそうだ。
性格が「正反対」の夫婦は、どうやってもうまくいかない。性格が「真逆」の夫婦は、案外うまくいってしまうかもしれない。
――ううむ、「性格が正反対でもうまくいく夫婦」は今でも成立する気が私はしますが、それはともかく「真逆」は「正反対」より範囲が広いということは何となく理解します。
「真逆」がなぜ広まったのかの理由は、こんなところにもあるのかもしれません。つまり「正反対」とは微妙に異なるニュアンスを出そうということです。
文脈に応じて相談が必要
しかし、校閲としてはちょっと困ったことになります。「真逆」と「正反対」のニュアンスが違っているとすると、言い換えとして「真逆→正反対」という直しが適切かどうか、悩みが増えるのです。機械的に直すのではなく、文脈に応じてこれは「全く逆」か、「全く違う」の方がいいか、はたまた単に「逆」「違う」だけでもいいのでは――などと相談することが必要になります。
それで悩むくらいなら、もう「真逆」を認めてしまえばいいのではという声もあるかもしれません。しかし、「真逆」よりずっと以前から人々の口の端に上るようになっている「ら抜き」でさえ、文章としてはまだ不適切という意見が多いと思います。「真逆」も今後の定着度を見る必要はあるものの、現段階ではオフィシャルな文章では控えるべきだと考えます。
長くなってしまいました。前後編でお届けした「『真逆』はなぜ広まったか」の理由というか、状況は以下の四つです。
・「真逆」を「まさか」と読む習慣が薄れた
・「逆」の使い方が拡散し、単独の「逆」では物足りなくなった
・マギャクの音を面白いと思う世代が現れた
・「正反対」とは違うニュアンスを出そうとした
しかしそれぞれ、そう思わない人にとっては「真逆」を忌み嫌う理由にもなりうるので、「ら抜き」と同じく、誰一人違和感を持たなくなり完全に定着するのは時間がかかりそうです。
【岩佐義樹】