狭山事件の元被告、石川一雄さんが再審請求中に病死しました。にわか勉強ですが改めて脅迫状は石川さんが書いたとされたことに疑問を感じました。日本語的、校閲的に最も気になったのは句読点。また石川さんは「りぼんちゃん」で字を習ったと言いましたが……。
サンデー毎日の連載コラム「校閲至極」に「小さなテンでも天に匹敵の価値」という拙文が掲載されました。ここでは、そこで書き切れなかったことを補足したいと思いますが、サンデーの拙文をお読みになっていない方がほとんどでしょうから、多少内容をダブらせつつ書きます。
目次
大野晋さん、井上ひさしさんも注目
まずタイトルですが、これは井上ひさしさんの「私家版日本語文法」から拝借しました。「句点と読点」の項で、井上さんは
「彼はかいしゃにはいらない」
などの文例を挙げ、こう記します。
読点(テン)の移動によって文意がまるでちがってくるこの仕掛(からくり)、これがわたしたちをうっとりさせ、よろこばせる。胡麻粒(ごまつぶ)より小さな、とるに足らないちっぽけな存在が“思想”を変えてしまう、この〔小人の力業〕にわたしたちは胸のつかえをおろす。小さな点が大きな天にも匹敵するという、この逆説
その後に引用されるのが、今はなき「朝日ジャーナル」1977年2月6日号の国語学者・大野晋さんによる「脅迫状は被告人が書いたものではない」です。
これは1963年の埼玉県狭山市での女子高生誘拐殺人事件(狭山事件)で、脅迫状と元被告・石川一雄さんの文章を国語学者として比較した論文です。全文はインターネットや、講談社学術文庫「日本語と世界」で読んでいただければ幸いです。私なりに重要なポイントを紹介するとこうです。石川さんは文章を書くという経験がほとんどなく、句読点の使い方も全く理解していなかったようであり「句読点を正しく打つことは、かなり正確な文章技能を持ってはじめて可能」だから、正確に打ってある脅迫状は石川さんが書いたものではないと断定するのです。
「毎日新聞を読んで」の意味は?
そういえば、ある海外の小説を校閲したとき「毎日新聞を読んで」という原稿に先輩が読点を入れて「毎日、新聞を」と直していたことがありました。私は内心「ここでテンがなくても毎日新聞社の毎日新聞と思う人はいないはず。ちょっと自意識過剰では」と思いました。しかし後で呉智英さんの「言葉の煎じ薬」にテンを入れた方がよい例として「毎日新聞を読む」が挙げられているのを見て、やはり一瞬でも誤読の可能性があるものは排除すべきなのだなと認識を新たにしました。
句読点の句点、つまりマルについても、マルが欠落した文末を仕事で直すことがよくあるのです。段落の終わりなら意味は通りますが、その中の二つの文の間のマルが脱落して続いて意味不明になる誤りもよくあり、校閲としては気が抜けません。
そして拙文コラムは「打ち方で意味も変わることがある句読点の大事さは私たちも理解しています。裁判官にその程度のことが分からなかったとすれば、この裁判自体もてんから疑った方がよくはないでしょうか」と結びました。
しかし実をいうと、サンデー毎日のコラムを書き始めたとき、狭山事件のことは一切頭にありませんでした。石川一雄さんが亡くなったのは今年3月11日ですが、そこから思いついたのではなく、全くの偶然でした。ただ「春はあけぼのやうやうしろくなりゆく山ぎはすこしあかりて」という、どこで切れるか分からない文章をマクラに(枕草子だけに)、読点の重要性を書いてお茶を濁すつもりだったのです。でも書き始めて「そういえば井上ひさしさんが句読点について何か書いていたな」という気がして、本棚をあさって行き着いたのが「私家版日本語文法」でした。その中にあった大野晋さんの文章を通じて狭山事件に触れるに至ったのです。今回のコラムもにわか勉強ですが、知れば知るほど判決への疑問がわき上がってきました。
脅迫状で参考にしたのは「りぼんちゃん」?
大野さんは脅迫状の文面と石川さんの直筆の文章を詳細に比較しているのですが、もちろん脅迫状は重要な証拠物件ですから、大野さん以外にも比較した人は多くいました。ただ他の論者は、脅迫状に使われた漢字を当時の石川さんが知っていたはずがないなど、漢字の知識や筆跡を主に問題にしていて、句読点の有無は国語学者の大野さんならではの着眼点ではないでしょうか。
ここで出過ぎたことながら、私自身が気になったことを、管見を顧みず述べてみます。
石川さんに無期懲役を言い渡した1974年東京高裁確定判決は、当時石川さんの妹が読んでいたという「りぼん」から、知らない漢字を振り仮名を頼りに拾い出して練習したうえ脅迫状を作成したものと断じます。でも判決によると、石川さん自身の証言として「私は本当に漢字は少ししか書くことができません。私はその手紙を書くために『りぼんちゃん』という漫画の本を見て字を習いました」とあります。
子供向け漫画は漢字にすべて読み仮名がありますから、その平仮名から漢字を導き出せたはずで、石川さんの小1か小2レベルの漢字知識でも脅迫状を書けたという理屈。かなり無理があると思うのですが、想像するにそういうストーリーをもとに自白を迫られた石川さんが挙げた雑誌名が「りぼんちゃん」だったのでしょう。
「りぼんちゃん」? この題名に私は首をかしげました。有名な漫画雑誌「りぼん」に「ちゃん」は付きません。私は当時の「りぼん」を見ていないので確実なことは言えないのですが、「りぼん」に「りぼんちゃん」という連載があったという情報は少なくともネットでは見当たりません。ちなみに赤塚不二夫さんの「ひみつのアッコちゃん」は事件当時、連載されていました。
「りぼん」という正確な雑誌名さえ石川さんは言えないということは、ほとんどこの雑誌のことを覚えていないのでは? つまりそれで漢字を学ぶほど熱心に読んでいたとは到底思えないということになるのではないでしょうか。
ところで、漫画雑誌には文の後にマルを付けるものと付けないものがありますが、「りぼん」は付けない編集方針のようです。もし石川さんが「りぼん」を読んでいたとしても、文末にはマルを付けるものという作法が植え付けられなかったのは自然と思われます。逆に文末にマルが付く漫画雑誌を見ていたのだとしたら、知らず知らずのうちに覚えて脅迫状にもマルを付けたという推論が成り立つのですが、そうではなかったのです。では石川さんが脅迫状を書いたとしたらマルをどこで覚えたのかという具体的な証拠に判決は触れていません。
脅迫状の拗音小書きも石川さんの字と違う
実際、石川さんの直筆文章には「マルがただ一つだけしかない。それも誤ってつけてある。つまり石川氏はマルとテンを見分けることも使うこともできなかった」(毎日新聞1994年7月6日夕刊)。しかるに脅迫状には正確に九つのマルが打ってあります。これだけでも、筆者が違うと疑うことはできるのではないでしょうか。
でもそれだけではありません。大野さんは拗音(ようおん)の表記にも注目しています。
脅迫状の第一二行目に、
気んじょの人
という表記がある。脅迫状の筆者は、「近所」をわざわざ仮名で書き、「き」に故意に「気」の字をあてたが、同時に「じょ」の「よ」を小さく書いた。これは拗音の仮名は小さく書くという高度の用字の知識を脅迫状の筆者が持っていることの現れである。
ところが(中略)被告人はこれを「きんじよ」と「よ」を大きく書いており(中略)被告人の書字技能では、「よ」を小さく書くという知識がない
――といいます。これらについて、裁判官は明確に反論を示さないまま「無期懲役」という判決を出しているのです。石川さんは脅迫状を書く能力がなかったというのは「所詮単なる憶断の域を出ない」と判決文にありますが、合理的根拠はうかがえません。
恐らく、拗音の小書きや句読点などは大した問題ではないと思われたのでしょう。しかし思うに、普通の教育を経たら当たり前すぎて小さく見えることも、石川さんのように識字能力が乏しい人にとってはそれを正しく使うのは大きな障壁になるということが分かっていなかったのです。
再審で「疑わしきは被告人の利益に」の原則を
警察は身代金を渡す場に張り込んだにもかかわらず犯人を取り逃がすという大失態をしでかしています。挽回するために何としても犯人を捕らえなければという焦りが、被差別部落出身である石川さんに向かったということが想像されます。
しかし、以前は社会的な関心が強かったのですが最近は薄れているのか、訃報の後も改めて狭山事件の詳細を振り返る報道は少ないように思います。
石川さんの死でもって、事件のエンドマーク(マル)がつくわけではありません。弁護団と石川さんの妻は4月4日、第4次再審請求を出しました。あくまでも一つの区切り、読点にすぎないのです。今度こそ「疑わしきは被告人の利益に」の原則をもとに、常識的な判断をくだしてほしいものです。
【岩佐義樹】