富田靖子さんが出演する。それだけの判断基準で「映画 鈴木先生」を見た。凡庸なドラマではない展開に息をのむ。公立中学校における教師と生徒の知的なぶつかり合いが幾層にも重なり、生徒会選挙と卒業生による人質事件の終幕までハラハラドキドキさせられた。少数者を排除していく管理システムが、行き場のない人間を生み出していく現代社会を痛撃しているようにも見える。
富田さんは、モラルを第一とする足子先生役。主役ではないことにファンとして無念の思いもあるが、「たるこ」と聞いた時は名前のほうと勘違いした。途中で姓だと気づくほど、全く予備知識がなかった。2011年の深夜枠でこのテレビドラマが放映されていたことも知らなかったぐらいだ。不覚である。パンフレットを開き、主役の長谷川博己さんの項はそこそこに、富田さんの項をじっくり読んでページをめくると生徒たちの写真群と役名が載っている。私の目は次の箇所でとまった。「紺野撤平」
人名に「撤」はつくだろうか。「てっぺい」の同音に「撤兵」はある。「撤去」「撤退」など、除き去る意味のとき「撤」を使う。「映画 鈴木先生」の公式ホームページを開いてみると、やはり「徹平」。物に通達する意味の「徹」は人の名前にこそふさわしい。
ところが、「週刊金曜日」4月12日号では逆に「徹退」(18ページ)とあって驚いた。隣のページの別記事では正しく「撤退」だったから、なおさらだ。ワープロの進展に伴い、「てったい」と打てば「撤退」しか出ないはずなのに。校閲では常識でも、意外と世間では「徹」と「撤」を区分けできていないのかもしれない。「撒布」(さんぷ)が「撤布」と化けていないか、手偏が入っていることに安心するだけでなく、右の部分もきちんと「散」となっているか留意していた鉛活字時代の30年前、富田さんが「アイコ十六歳」で主役デビューした時、私も駆け出しだったと懐かしく振り返る。
話を「映画 鈴木先生」に戻そう。富田さんから残念ながらコメントは頂けなかったが、彼女が脇役だった不満を私は撤回し、この映画を徹底的に推奨したくなった。
【林田英明】