三省堂といえば「辞書を編む人が選ぶ『今年の新語』」が毎年話題になりますが、三省堂現代新国語辞典でも新語や俗語とされる言葉が一部取り上げられています。「『数人』は何人くらいか」など、校閲記者が悩むポイントについてもうかがいました。
「三省堂現代新国語辞典」第7版発売を前にしたインタビュー記事全4回の3回目。「ら抜き言葉は絶対悪か」「『数人』は何人くらいか」など、校閲記者が悩むポイントについてもうかがいました。
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第7版に新登場「今年の新語」
――「三省堂 辞書を編む人が選ぶ『今年の新語』」は毎年話題になります。今回「今年の新語」から採録した言葉はありますか。
木村晃治さん (第6版で)「沼(②趣味などに、引きずり込まれるほどのめり込んでいる状態のたとえ)」「草(④[ツイッターなどで]笑う(・あざける)こと。笑えること。[waraiの頭文字を並べたwwwが、草が生えているように見えることから])」など、従来ならちゅうちょするような言葉を採録したことがちょっとバズりましたが、そういう言葉・用法の掲載について、旧来の辞書の基準からすれば一線を越えちゃった部分があったと思うんですよね。ですのでその後に出た大修館書店さんの「明鏡国語辞典」の第3版などでも俗っぽさの程度がかなり高いようなものが採録されていましたし、2年前に出た「三省堂国語辞典」の第8版も、従来なら見送られたのではないかというような語句まで採録されていました。そこにはやはり「今年の新語」というイベントが果たした役割みたいなものが大きいと思います。
小野正弘先生 (「今年の新語」にあがってくる言葉というのは)生徒たちが直面する言葉でありうる。たとえは「とりま」は生きて使われている言葉だと思います。まあ「とりま」は分からないから辞典で引こうとはならないかもしれませんが、引いてみたら載っている。そういうのは、自分たちの言葉が辞典という世界で認めてもらっているような感じがあるんじゃないでしょうか。
<三省堂 辞書を編む人が選ぶ「今年の新語」>
三省堂が、一般からその年よく見聞きした言葉を公募し、辞書を編む専門家たちが今後辞書に載ってもおかしくないものという観点から「今年の新語」を選ぶ。ベスト10は国語辞典の解説(語釈)付きで発表される。今年の選考発表会は11月30日の予定。
木村さん 「今年の新語」以外にもいわゆる狭い意味での新語も追加しています。教科書から拾ったお堅いもの以外の俗語を含めた言葉で採用、不採用にしたものをまとめました。
――「バミリ」は入れなかったんですね。舞台の寸法とかで立ち位置などが分かるようにテープを貼ったりする印のことで、「場見る」からと言われています。
小野先生 舞台用語ですね。専門的過ぎるものも入れないですが、どこまで入れるといいのか、どこまで入れると面白いのか、難しいところですよね。演劇とか舞台に興味のある人が「バミリ」が載っていたらうれしいですよね。
「今年の新語」はそろそろ辞典に載せてもいいかなというものを(選びます)。ただ、新語や流行語の毎年のランキングというのは例えばその一部のネット民たちがつくっている新しい言葉だけで席巻されるべきでない。言葉を使うのはもっと広い人たちだから、その広い人たちにもちゃんと分かってもらえて受け入れてもらえるようなものの方がいいのではないかとも考えますね。
――ここに挙がっている不採用になったもので、まだ早い、これは載せなくてもいいと判断したものはありますか。
小野先生 「まだ」というよりは……「陰キャ」「陽キャ」というのは、限られた人々が使うというイメージで。それよりも「これまだ載っていなかったのか」というものが結構いろいろあったので、そっちをまず載せようと。「オワコン」とかですかね。
――「原チャリ」とか、意外とまだ載っていなかったんですね。
小野先生 なんで載ってなかったのみたいなものもありますね。「デキ婚」とか「ドヤ顔」も載ってないんだと。載らなかったものも、載せたくなかったということではなくてまず載せたいものがあったということ、そっちが先ですね。「ワンチャン」「レベチ」……「リア充」がなかったのも意外です。
「真逆」「一両日」「課金」… 校閲記者も悩むポイント、辞書の説明は?
――語釈の書き方の見直しなどもなさったかと思いますが、例えば「真逆(まぎゃく)」について、第6版では「ややくだけた言い方」という説明がありました。第7版でもそのままでしょうか?
小野先生 やはり「正反対」といった言葉の、ややくだけた言い方でしょうね。前はそういうときに「俗語」って書いていたんですけれど、「くだけた言い方」とかの方が伝わりやすいかなと思って変えていったりしています。「俗」とか「くだける」ってどういうことかというと、例えば学生に説明するときに「面接で言えますか」などと聞いて、それが基準になると説明しています。うーん、それでいうと「真逆」はもう一回聞いてみないとですね。
――だんだん普通に使われるようになってきていると感じますが、現時点では新聞では書き換えるようにしています。
小野先生 そうですね。私は実はね、新しい言葉をわざと使うということを結構やっているんですよ。たとえば「逆に」って言い方。逆じゃないのに「逆に」っていう使い方ありますよね。実際にそれを使う人たちとは2世代、1世代半くらい離れているんですけど、それくらい年が違うと、言葉を新しく使う直観(言語感覚)が働かなくなるんですよね。そういうの(新しい言葉の使い方やニュアンス)を正しいか正しくないかって判定できるのは彼ら彼女らだけだから。あえてぜんぜん逆じゃないのに「逆にさ」とかしゃべってみて、あとから「今の使い方どうだった?」とか確認してみる(笑い)。「真逆」もまた試してみようかな。でも授業などの場で「真逆」は使わないですね。「それとは逆に」という、由緒正しい言い方をいたします。
木村さん あとは「ら」抜き言葉。先生はいかがですか?
小野先生 私は一生使いません。使わないけれども、人々が使うことに対してとやかく言うつもりはもう全くないです。最初はびっくりしたんでしょうね。こんな言い方はない、文法的に間違っていると。でも私が覚えているのは「ら」抜きが使われ始めたころに、プロ野球ニュースで別所毅彦さんが、当時70歳くらいと高齢だったんですけれど、「なかなか良いボールが投げれる」とかおっしゃっていて、別所さん「ら」抜き言葉使うんだと。つまり、若い人たちがというのではなく、世代を問わないんですよね。
木村さん ご自身は使わないけれど、とがめだてはしないと。
小野先生 助動詞が間違っているんじゃなくて、可能動詞を新しく作ったんだと考えればいいと考えています。
――新聞では地の文などでは直しますが、しゃべり言葉では迷いますね。スポーツ選手の発言で勢いが感じられる場合などではあえて直すことはしないということもあります。
小野先生 「すごい楽しい」はどうでしょう。テレビなんかで見ていると、誰かが「すごい楽しいです」と言っていても下のテロップは「すごく楽しいです」となっていたりしますよね。私は「すごい」はそろそろ、形容詞ではなく副詞「すごい」として認めてもいいんじゃないかと思っています。今回はそこまで冒険はしなかったですけれど。
木村さん もし次の版で入れるならば、書き方はどうなるんでしょう。
小野先生 形容詞の「すごい」とは別に副詞「すごい」を(立項して)認めちゃう。結構、そういうふうに考えている人はいると思いますね。形容詞の一用法だと考えなければいいと。
――辞書が改訂される際に注目する項目の一つに、「数人」「数個」の「数」がどのくらいの数を表すかというものがあります。三省堂現代新国語辞典の現行版では「三、四の。五、六の」となっていますね。先日イベントで、三省堂現代新国語辞典は「三、四の。五、六の」と示してくれているのに、広辞苑は書いてくれていないよね、という話をしました(笑い)。
小野先生 英語のネーティブスピーカーに「a few」はどのくらいかと聞いたことがあるんですよ。私は多分学校で「a few」は2、3と教わったんですけれど、その人は4、5でも「a few」って言っていいよと。もしかしたら「数」っていうのは、英語教育なんかで「a few=2、3」と数を当てはめて説明することなんかに影響を受けて、具体的な数値を当てはめるようになったのかもしれないですね。
――弊社の用語集では、一応どのくらいの幅を指すのかという基準は定めておこうということで、前は「5、6」だったのが今は「4、5前後」としています。ちょっと減らしたけれども、「2、3」ではないというふうに。新聞は比較的年齢層の高い方に読まれていますし。
小野先生 「数」というのを使わないで、3、4人とか、5、6人とか言えば誤解は招かないんでしょうけれど、言っている本人もすぐ計算できないから「数人」と言うのでしょうね。
似た例では「一両日待ってください」といって3日待たせる人とかいますよね(笑い)。
――言った人と聞いた人とで違う理解だと困りますよね。「1日、2日のこと」というのがだいたい辞書なんかで説明されることだと思うのですが、それをいつから数えるのかという問題もあって。「今日と明日」なのか、「明日とあさって」なのか。三省堂国語辞典の前の版では「今日明日のうちに」だったのが、8版で「今日明日または明日あさってのうちに」となりました。
木村さん 「一両日」は三省堂現代新国語辞典でも今回手入れをしていますね。「一日か二日。『一両日(=あすかあさって)のうちにうかがいます』」だったのが「きょうかあす。または、あすかあさって」となっています。
単純に「誤用」だけでは説明できないことも
――「役不足」を「力不足」の意味で使うことについて、5版にあった「誤って」という断りを6版でなくしていました。誤用とされたり本来の使い方とは違うとされたりしてきたような使い方について、今回そんな感じで認め方、表現の仕方が変わった言葉はありますか。
小野先生 結構もう(旧版で)変えてしまっているんですよね。「全然~」なんかも(否定を伴って使うとされることもあるが)もう前の段階で表現を変えていました。ただ工夫してあるのは、今まで書かれてきたことを完全に否定するのではなく少し顔を立てながら、新しい用法を入れていくようにしています。「全然」の例でいうと、打ち消し表現と呼応する以外は誤りとされてきたけれども実はそれには根拠がないっていうところをまず書いて。単純に前に言っていたことが間違っているというような書き方をするのではなく、少し幅をもたせるようにしています。
――元々ある言葉の使い方が広がるということはあると思うのですが、意味が逆になるような変化は伝える上で困る部分があって。例えば「募金」は本来「お金を募ること」ですが「寄付をすること」という意味で使われることがあり……。似たような例に「課金」もあります。三省堂現代新国語辞典の6版には募金の方は「誤って」寄付することとありますね。「課金」は本来の意味しか載せていません。
小野先生 課金は(7版では)両方書いていますね。(有料サービスを、料金を払って使うことについては)「料金を課される意味への短絡」と説明しています。なぜそうなっているのかというのをもっと説明したいですよね。
木村さん ゲームに課金するというような使い方をする際に、その人は(「課金」の意味を)誤解しているかというとそうではないかもしれなくて。本来の用法とは違うと分かっていて「確信犯」的にずらした使い方をするというのは、ネット用語にはすごく多いような気がしますね。いわゆる「誤用」と言われる使い方をする人たちの中には、分かっていても便利だから使うという人もかなりいると思うんですよね。手っ取り早いですから。
そういう言葉や用法について明確に「誤り」と書く辞典もあって、確かに誤っているんだから不適切なことを書いているわけではないですしそれはその辞典の立場で。でも単純に誤っているとは言い切れない別の事情とか便利さとか短絡とか、そういう背景があるということにできるだけ触れておきたいですね。
小野先生 でも世の中には、辞典はちゃんと間違っていると言いなさいという人もいるんですよね。(便利さや短絡的な使い方に)理解を示すだけではだめで、ちゃんと誤りだと書いてくれという意見もある。言葉の習得って10円貯金みたいなもので。何年も続けてかなりの金額になったぞというときに、もう10円は使えませんよっていわれるようなものなんです。あるとき自分がためてきた言葉(の理解)が使えない、使わないんだと言われてしまうと、せっかくためた10円が使えなくなってしまったような感覚になるんです。(これまで誤りとされてきたような言葉や用法を認めることに否定的な意見は)きっと論理的なものっていうよりも、感覚的な、情的なものなんですよね。