校閲の仕事をはじめてもうすぐ2年になります。自分とはスピードも質も桁違いな先輩方の仕事ぶりを見ながら、自分もたくさん経験を積んで早くあんなふうに……と思う一方で、経験を積めば積むほど「校閲って、日本語って、こんなに難しかったっけ?」とこの仕事の難しさに迷い込んでいく感覚にも陥ります。
これまで日本語を母語として不自由なく使ってきたつもりでいましたが、校閲記者になってからは日々原稿に向き合う中で、まるで知らない言語を読み解いているかのように頭の中が「?」でいっぱいになっています。
「表情がほころぶ? 顔がほころぶ?」「ユニホームに腕を通す? 袖を通す?」「東京近郊って、東京都も含んでいいの?」「連日って2日連続でも使えるっけ?」「『互いの利点を補完する』ってなんだか変?」「7割強って何%くらいまで? 7割超との違いは?」
特別難しいわけでも、複雑なわけでもない言葉に対して、これでいいのか自信が持てなくなったり、ふと違和感を覚えたりして立ち止まってしまうことの繰り返し。故事成語や難読漢字など「難しい言葉」を調べるのが好きなませた小学生だった私ですが、今電子辞書の検索履歴には、そのころには辞書で調べようとも思わなかった「普通の言葉」が並んでいます。
また、校閲における「事実確認」も、一筋縄ではいかないものだと痛感する日々です。高校生棋士の藤井聡太七段(当時)の史上最年少タイトル獲得が懸かった試合を前に「最年少タイトル獲得ランキング」の上位5人の表をチェックしたときのことです。数字や固有名詞に誤りは見つからず一安心。しかし念のため他に対象者がいないか調べてみると、4位に入るべき人が抜けていることに気づきました。このときは時間に余裕があり納得いくまで調べることができたので、出稿部に確認した上で正しい内容で紙面に掲載できほっとしました。
でも、うまくいったことばかりではありません。「米東部時間6日午前6時(日本時間7日午後8時)」と日米間に38時間もの時差が生じることになってしまっている原稿を通してしまいそうになったことも。再校役のデスクに指摘され、愕然(がくぜん)としました。「14時間の時差」という時間の部分だけ見て確認したつもりになっていた自分が恐ろしいです。
そして、時間をかけて日本語の使い方は適切か、事実関係に誤りはないかなど一言一句確認してもう大丈夫だと思っても、「黒人差別撤廃や警察による暴力を批判する抗議集会」という文章をさらっと読み飛ばしてしまい、「差別撤廃を批判する」とつながってしまうことに気づけなかったことも。木を見て森を見ずでは元も子もありません。
どうすれば早く正確に穴のない校閲ができるのか試行錯誤する日々がいまだに続きますが、校閲に近道もコツもないのかもしれません。一つ一つの原稿に真剣に向き合う。悩んで、調べて、納得して決断する。その積み重ねがよりよい校閲をすることにつながればいいな、と思いつつ今日も原稿に向き合っています。
【久野映】