昨年12月、東京・立川にある国立国語研究所に出かけた。70周年記念行事の一環として、どのような研究をしているかを一般向けに紹介するオープンハウスが開催されたのだ。
目次
用例分析による語釈の見直し
まずは、研究者の方々のポスター発表。それぞれ現在の研究テーマについてまとめたポスターが38カ所に掲示されており、それを見て回った。真っ先に向かったのは柏野和佳子さんの「用例分析に基づく国語辞典情報の見直し」という発表だ。
実は柏野さんにお会いしたいとかねて思っていた。1年前に刊行された広辞苑7版で「さする」と「なでる」と「こする」、「焼く」と「炒める」といった類義語の書き分けを担当した方の一人と聞いていたからだ。
用例を収集し、その分析によって、誤用か新しい用法かなどを判断していく過程を説明。実際に広辞苑の語釈を見直した例も紹介してくれた。
「駆け抜ける」広辞苑の変化
「駆け抜ける」の広辞苑6版の語釈は「馬を駆けて通り抜ける。ある物の間を走って向こうへ出る」。広辞苑は語釈がそっけない……馬で?
柏野さんによると「痛みが〜」「恐怖が〜」「全身を〜」「〜スリル」など多数の用例があり、7版ではそれらを踏まえつつ「馬に乗っている必要もないから……」、
①駆けて通り抜ける。ある物の間を走って向こうへ出る②(感情・感覚などが)瞬間的に心身に行きわたる。はしりぬける③急いで進む。軽快に生き生きと進む。
と、確かにこういう使い方するなあと思える語釈になり、馬はいなくなった。
前人「みとう」は「未踏」?「未到」?
また、「前人未踏の30連勝へ!」という例を見せながら「毎日新聞はどうですか」と話を振る。「弊社では『前人未到』に統一しています」と話すと「そう、私も学生には『前人未到』と書いた方がいいと言っているんだけど」、書籍を中心としたデータベースでは「前人未到」23件、「前人未踏」16件、ネットの言葉の検索では「前人未到」4012件、「前人未踏」1996件と、「前人未踏」が無視できないほど増えてきているという。
もともと「到達する」と考えるか「足を踏み入れる」と考えるかでどちらが誤りともしにくい言葉だ。辞書によっても書き方が異なり、広辞苑の場合、「みとう」を引くと「未到」の用例「前人―」、「未踏」の用例「人跡―」となっているが、「前人」で引くと「前人未踏」をメインに示している。
柏野さんは今後、書き言葉、話し言葉など、使う場面がわかるような語釈を載せられたら……と、次の辞書への抱負も語っておられた。
「プレッシャーがわく」とは?
更に、たまたま電車の中で聞いたという「プレッシャーがわいちゃう」という言葉も話題に。驚いてネットで検索すると出てきた(「湧く」も「沸く」も)そうだが、さすがにまだ辞書に載せられないものの観察していくと話していた。
これを聞いていたときはプレッシャーが「わく」(湧にしても沸にしても)なんて……と、「わく」で表現することばかり気になっていた。後で考えてみると、むしろ「プレッシャー」の意味がずれて使われているのかなとも思えた。「プレッシャー」は「(精神的な)圧力、圧迫」で、外から加えられるものだから「わく」のはおかしいと感じるのだが、「外から」という感覚なしに使うのかもしれない。例えば試合前に、外からの圧力を感じての「プレッシャー」がかかるとよく言うわけだが、自分の中に生まれる緊張や焦りなども「プレッシャー」と言うように使い方が広がったのかもしれない。柏野さんの今後の「観察」に注目したい。
場面によって使い分けられる言葉
ほかのポスター発表も見て回った。専門的で難しそうなものも多い中、2カ所で見入ってしまった。
小磯花絵さんは「日常生活に見られることばの使い分け」というテーマ。説明の途中からだったが、どうやら日常会話を録音して言葉を拾っているらしい。それだけでなく、ビデオも撮ってその場面がわかるようにしているというので驚いた。データベースで「ですよね」を検索すると、その前後の文言とともにずらりと表示される。更に横をクリックすると、その言葉を発した場面の画像が現れるのだ。すごい! どんな人がどんな人にどんな場面でどう言ったか、きれいにデータになっている。
こうした話し言葉のコーパス(言語研究のため体系的に収集された資料)は、音声を認識して自動で文字に起こす技術にも役立てられているそうで、 最近、性能のよくなった自動音声認識などにも貢献しているという。「そういうレベルでも世の中の役に立っています。実はひっそりと」(小磯さん)
そもそも話し言葉を記録することは難しい。学生時代、雑誌「言語生活」の「録音器」というコーナーを読んで、昭和前半の美容室での会話の言葉遣いに興味を持ったことを思い出した。小磯さんは「創立後間もない1950年代からポータブルレコーダーでとった音があるんです。その眠ったままだった音源を引っ張り出してデータを整備しています」と。「おおっ」と思わず声を上げる。「なかなか面白いですよ。しゃべり方が違うので。昔は男性の声がちょっと高いんですよ。タクシーの苦情対応の声とか」(小磯さん)
「やはり」「やっぱり」「やっぱし」「やっぱ」
また、「やはり」「やっぱり」「やっぱし」「やっぱ」が使われる場面をグラフで示してくれた。行政の白書では「やはり」しかなく、新聞はコラムなどもあるので「やっぱり」も出て来る。雑誌はそれが半々。日常会話になると「やはり」が一つもないという結果にも、なるほど……会話で「やはり」と言う人がいれば「変わった人」という印象を受けるだろう。
外来語の定着度 どう変化しているか
相澤正夫さんの発表は外来語の定着度について。2002〜04年の認知度調査と10年後の14年に調査した結果とを比較したという。04年調査の結果から30語を選んで認知度別に10段階にランク付けし、14年調査の認知度と比較すると、ランクごとの傾向が見られる。認知度が高いランクのものはそのまま高く、低いものはそのまま低い傾向にあるが、中くらいのランクでは顕著な認知度アップがみられた。認知度が04年も14年も高いのはランク10のオンライン、カウンセリング、ケアでランク1のオーソライズ、トレーサビリティーは14年も低いまま。一方、ランク4のイノベーション、ログイン、セカンドオピニオンは3語とも顕著に認知度が伸びている。
顕著に認知度が上がったのは
ところが、例外がある。ランク1のコンプライアンスとランク2のガバナンスが、14年調査で顕著に認知度が上がっているのだ。思わず「不祥事があるたびに増えますね」と口を挟んでしまった。記事に「コーポレートガバナンス(企業統治)」「コンプライアンス(法令順守)」が出始めたころは、不祥事を起こした企業がわざわざ難しい言葉を使うことで、重く受け止めているように見せているだけという印象があった。今ではあまりによく聞くものだから、言葉が軽くなって特別な感じはしなくなった。
また、聞いたことがあるという認知率と、意味がわかるという理解率とには相関があるそうだが、例えば同様の認知率でも、ノンステップバスという具体的な物の名では理解率が高く、アセスメントといった抽象語では理解率が低いということも、データで示されて興味深かった。
年配の読者も多い本紙では、むやみに新しい外来語を使わないようにしなければならないが、どれくらいで定着したといえるかわからず判断に迷うことも多い。こうした調査・研究の内容が新聞でも活用できるとよいのだが。
研究図書室 見たこともない辞書いくつも
オープンハウスでは、研究図書室の見学ツアーも行われた。日本語に関する書籍を15万数千冊、雑誌を6000種近く所蔵しているという。
普段は部外者が入れない閉架書庫から案内してもらった。保管のため気温・湿度を一定に保っているといい、ひんやりとしている。大半が言語に関する図書だが、そのうち都道府県ごとに分類された棚があり、北海道から沖縄まで通り抜けさせてもらった。島ごとに書籍があったりもして、見学者はみな(大きい声は出せないが)きゃあきゃあ言いながら見入っていた。
そして、案内の方が取り出した鍵で重そうに扉を開ける。所員の方でも普段は入れないという貴重書庫に入った。大きいパイプから空調の風が吹くが、古いにおいがする。辞書類や言語地図などがあり、手を触れないようにと言われていたが、確かに触れれば壊れそうな書物ばかりだ。
次に一般の閲覧室の棚を見学。雑誌が外国のものも含め多種きれいに並ぶ。百科事典や分野ごとの用語辞典、もちろん国語辞典は各種、それも各版ある。自由に見てよいと言われ、見学者が喜々として見て回る。
職場に国語辞典は大方そろっていると思っていたが、見たこともない辞書がいくつもあってわくわくする。各分野の用語辞典もこれだけあればどんなに校閲作業の役に立つだろう。
「角川最新国語辞典」を手に取って巻末に新語欄がないことを確認した。12月5日の「国語辞典ナイト」で「角川国語辞典」巻末の新語欄が楽しいことが紹介され、職場で「角川新国語辞典」にも新語欄を見つけていたからだ。
「現代用語の基礎知識」が並んでおり、「ほら、昔はこんなに(判型が)小さかったんだよ」「えっ、ずっと同じじゃないんだ」「確か最新版はでかくなったんじゃないっけ」の声。「そうそう、2019年版、棚に入らなくて」と筆者。ほかの辞書仲間もやはり困っているらしい……としばし盛り上がる。
遠慮しながら写真を撮っていると、国語研の各種報告書の棚に案内された。今では一般に公開すべく電子化しているところだという。職場からでもどんどん見られるようになればありがたいことだ。
最後に机に広げられた巻物を見せてもらった。さまざまな古い書体を紹介した書物「古今文字讃」だ。中国に留学した空海が日本に伝えたとされ、ここにあるのは1503年の写本。大学の図書館に持っているところもあるが、上中下巻すべてそろっているのはここだけ。これも電子化されてホームページで見られるそうだ。見学者の「レプリカ?」の声に「これは原本です」と言われて「くしゃみとかできない」と全員緊張。
シンポジウムは聴けず残念だったが、さまざまなものが見られ、満ち足りた気分だ。その日は誕生日だったのだが、自分にプレゼントをしたような気分で帰途に就いた。さらに翌日のことだが、レスリングの全日本選手権が職場のテレビに映っていた。伊調馨選手の逆転勝ちに後輩が盛り上がっていたが、「あーっ」と叫んだ私は画面の隅を指さした。「前人未踏……五輪5連覇へ前進」と表示されていたのだ。後輩が「そこ?」とあきれる中、画面を撮影して柏野さんにメールしたのだった。
【平山泉】