大石内蔵助の名は有名ですが、内蔵助は通称で実名は「良雄」。でもこの読みがはっきりしていないのです。ドラマ「光る君へ」では中宮「定子」「彰子」が「ていし」「しょうし」ではなく「さだこ」「あきこ」と呼ばれましたが、根拠があるのでしょうか。
12月14日は名高い赤穂浪士討ち入り。それにちなみちょっとした文を書こうと「おおいしくらのすけ」とパソコンで入力したら「大石内蔵助」と一発変換されました。だから正しいと思うのは素人。プロはちゃんと確認します。
とりあえず人名も載せている広辞苑を引いてみると「大石内蔵助」自体は当然載っていまして漢字も正しいことが確認できます。ただ「大石良雄の通称」と語釈があり業績などはそちらを見よという扱い。【大石良雄】を見ると「-・よしお」という読みを一番に掲げているにもかかわらず、すぐ後に
(名は正しくはヨシタカ)
とカッコ付きの文言が。えっ「よしたか」が正しいならなぜそちらを出さないの?と思いますよね。ということで私なりに「大石内蔵助」という名前について調べてみました。
目次
辞書では大石「よしお」で立項
断っておきますが、私は日本史の専門家ではなく、大学で日本史を専攻したこともありません。辞書での歴史人名の記述の原則も詳しいことは知りません。見当違いのことを書いてしまうかもしれませんが、そのときはどうかご指摘ください。
まず辞書の並べ方についてですが、私がそうであったようにまず「おおいしくらのすけ」のところから調べる人が多いと思われます。そうなら【大石内蔵助】のところで長い説明をすればいいのに、と思いますが、「内蔵助」は正式な名前ではなく通称という判断から【大石良雄】の項に詳しい説明を譲っているのでしょう。
ところで故・高島俊男さんの「お言葉ですが…」の一編「慶喜(けいき)と慶喜(よしのぶ)」によると、徳川慶喜は今「よしのぶ」と言いますが、「けいき」と音で呼ぶ方が敬意を込めた呼び方だそうです。しかも訓は「よしのぶ」のほか「のりよし」「よしひさ」もあったようです。
そもそもこの頃の実名(じつみょう)は、生前に他人から呼ばれることはまずなく、当人が公文書に署名するために用いたとか。だから「文字は絶対にまちがいが許されない」けれど、「そのよみかたはどうであってもよい」といいます。
「よしたか」が正しいとされる訳は
大石良雄に複数の読みがある事情は分かりました。それにしてもどうして「良雄」を「よしたか」と読むのが正しいとされるのでしょう。岩波文庫の「元禄快挙録」(福本日南)をめくるとこうありました。
内蔵助の名乗良雄はあるいはヨシタカといい、あるいはヨシカツともいい、一般にはヨシオと称している。が、ヨシタカが正称らしい。
内蔵助の実印に隆の字があるから、良雄はヨシタカと記しておいたが、再思すれば、印には反切の字を用いる古例がある。良・雄の反(かえし)は隆であるから、それで隆の字を用いたものと見える。
反切は「はんせつ」と読むのですが、分かりにくいですよね。日本近世史が専門の尾脇秀和さんの「氏名の誕生――江戸時代の名前はなぜ消えたのか」(ちくま新書)から引きます。
反切は「字を返す」ともいい、「二字の音を一つにして一字の音にすること」である。例えば「貞丈(さだたけ)」(テイジョウ)という名乗を反切すると「長(ちょう)」という字が導き出される。
ということは、
良雄→リョウユウ→リュウ→隆→たか→よしたか
という流れなのでしょうか。なんだかキラキラネームもびっくりの連想のような。中国語の音韻に基づくらしいのですが全くの門外漢なので次に進めます。
「元禄快挙録」で福本はこう続けています。
堀内伝右衛門自筆の覚書を看(み)れば、伝右衛門は親しく内蔵助に就いて、良雄の正称を質(ただ)した上、殊にカタカナをもってヨシタカと傍訓を施していた。
なあんだ福本さん、そんな資料があるなら早く見せてよ、と思いましたが、岩波文庫にはその正確な文書名を含め詳しいことがないので、真相は確言できません。ただ、良雄の字でヨシタカと読ませるのも根拠があるらしいことは分かりました。ではなぜ「よしお」を辞書は前に出すのか、という当初の疑問は残りますが。
「内蔵」「助」の字はどこから
さて。次に「良雄」より有名な「内蔵助」という通称について調べてみましょう。そもそもこの字で「くらのすけ」と読ませるのは何か理由があるのでしょうか。「うち」はどこへいったのでしょう。
内蔵助は律令制の官名に由来します。「内蔵」とは「内蔵寮(くらりょう)」、「助」は次官のこと。「国史大辞典」(吉川弘文館)の「内蔵寮」には、「内」の字を読まないのが慣例とあります。そういえば「浅野内匠頭」も「内匠寮」のトップということですが、やはり「内」は読みません。
前述の「氏名の誕生」には「四部官の官名」という表があります。そのほんの一部を抜き出すと、官名には法則のような接続があることが分かります。
諸寮:内蔵(くら)、内匠(たくみ)、主税(ちから)…… /長官=頭(かみ)/次官=助(すけ)
諸国:大和、河内、伊勢…その他、計68カ国/長官=守(かみ)/次官=介(すけ)
この本は特に忠臣蔵の人名として挙げているわけではないのですが、見事に対応しています。すなわち「大石内蔵助」「浅野内匠頭(たくみのかみ)」「吉良上野介(こうずけのすけ)」。
上野介の「上野」は今の群馬県で、その旧国名に「介」が付いています。つまり同じ「すけ」の読みでも旧国名に「助」を付けることはないといえます。一方で「内蔵助」が「内蔵介」となることも原則としてありえないのです。ただし大石内蔵助の内蔵助はどうやら正式な官名ではなく、朝廷の許可なく代々勝手に名乗っていた官名風の通称を受け継いだもののようです。それによって家老としての風格を備えようとしたとされます。
ちなみに、浅野内匠頭の実名は「長矩」で「ながのり」と読ませることは各資料で一致しています。しかし吉良上野介の実名「義央」は、一般に「よしなか」として知られますが「よしひさ」というのが正しいともいわれると「国史大辞典」にあります。ただし広辞苑、大辞林とも「よしなか」で見出しを立てています。広辞苑は「ヨシヒサ」とも、とありますが、大辞林は付記していません。
うーん、これも「おおいしよしお」と同じく、一般的な呼び方を取っているのでしょうか。まったく、歴史上の人物の読み方は困りものです。
中宮「定子=さだこ」の根拠は?
最後に、今年の大河ドラマ「光る君へ」の登場人物の名です。陰陽師、安倍晴明を「はるあきら」と言っていましたね。「せいめい」で知られ、辞書や事典でもそうなっていますが、あえて訓読みに合わせているのでしょう。
中宮「定子」「彰子」も、学校で習ったはずの「ていし」「しょうし」ではなく「さだこ」「あきこ」と呼ばれていました。できるだけ訓読みにするというドラマの方針が感じられます。
先に引用した「氏名の誕生」の続編と言うべき「女の氏名誕生――人名へのこだわりはいかにして生まれたのか」が今年、やはりちくま新書から出ています。
こういう名は後世には訓が不明になったものが多いため、学術上はとりあえず藤原威子(ふじわらのいし)、安子(あんし)などと、すべて音読みで済ませる慣例が江戸時代後期頃から現在まで行われている。ただし貴族女性の《姓名》としての「何子」は、幕末に至るまで必ずサダコやノリコなどという訓読みであり、テイコやトクコという音読みは存在しない。
ということです。ドラマが「さだこ」「あきこ」の読みを採用したのは決して根拠のないことではないと納得しました。
この本を通読すると、副題にあるように「人名へのこだわり」、名の表記へのこだわりは明治以降の現象で、特にコンピューターで文字を表すようになってから細かい異体字にも区別を求めるようになったことまでが、豊富な実例とともに通観できます。我々校閲者を悩ます字体の問題も記され、快著と思いました。
【岩佐義樹】