校閲作業で注意すべきポイントの一つに「突然の改名」というのがある。つまり、渡辺さんが渡部さんになったり、○○市長が○○社長になったり、記事に出てくる固有名詞などが、途中で誤ったものに変わってしまうことを指す。ある大先輩によれば、このミスを防ぐためには「記事を読み終えた後で、もう一度頭から固有名詞だけをまとめてチェックしていくこと」が有効だそうだ。その大先輩いわく「これぞ校閲の秘伝!」。
早速普段の読書でもこの秘伝を実践してみよう、というわけではないが、職業病か、いくつか見つかった。まずはギュンター・グラスの「犬の年」。邦訳で2段組みの上下巻、計約700ページの長編小説だが、物語のカギを握る犬の名前「ハラス」が1カ所だけ「ハスラ」になっていた。翻訳者は愛犬家で、ここから取って自分の犬にも同じ名前を付けたという。まさか間違えてないだろうね、といえば意地が悪すぎる。
次はちょっと違うケース。中野重治の「甲乙丙丁(こうおつへいてい)」は上下約1000ページ。独特の構成をしていて、前半と後半で主人公が異なる。それで作者も混乱したのかもしれない。後半部、主人公の名前が、別人の名前が入るべき箇所に紛れ込んでしまったのだ。おかしいなあと思いつつ読み進めていくと、案の定、最後のページに次のような訂正が載っていた。「第一九三頁一二行目の田村(誤)は佐藤(正)」(単行本版、第1刷)。これは校閲記者だからこそ気付けた間違いだろうか。別に見つけたからといってどうということもないけれど、相手が中野重治とくれば、少しぐらい得意に思ってもバチは当たらないはず。日常生活で仕事の経験が生きた。もちろん「犬の年」と同様、編集のどの段階で間違えたかは知る由もないのだが。
最後は、再び海を越えてディケンズの「荒涼館」。邦訳で全4巻、超の付く大作だ。その長大な物語も佳境に差し掛かったところで、主要な登場人物の一人「マシュー・バグネット」が突然「ジョゼフ・バグネット」に「改名」した。しかし、こちらには訂正ではなく注釈がついている――「作者のうっかりミスである」と。英国最大の国民的作家の「うっかりミス」ともなれば、安易に間違いを正すよりも、逆にそれを残した方が良いらしい。
【谷沢玲】