ある朝、いつものように行儀よく座って左手にペンを持ち、原稿を読み進めていた20代半ばの校閲記者Nは、ふと別の文章に目を留めた。夕刊1面に掲載される、映画紹介コーナーの一節。そこには、こうあった。「日本アカデミー賞は『桐島、部活やめるんだってよ』が……」。昨年公開の大ヒット映画の紹介文である。一度目を閉じ、一つ息を吐いた。何かが違う。背中にはいつの間にか、じっとりと汗がにじんでいた。しばらくして「ああ!」と声を上げた。違和感の正体に気づいたのだ。映画の本当のタイトルは「桐島、部活やめるってよ」だった。
「映画」というテーマに沿ってシナリオ仕立てにしてみたが、こういうほんの小さなミスは、しばしば起こる。例えばほんの小さなミス、登場人物編。
今年1月、大島渚監督が亡くなった。「タブーに確信犯的に挑んで」とある訃報記事に、誰もがうなずいたことだろう。原稿では最初、次のように代表作が語られていた。「オランウータンと人間の女性が恋に落ちる『マックス、モン・アムール』」。通して見たことがなくとも、その印象的なポスター、あるいはビデオのパッケージには見覚えがあるかもしれない。きれいな外国人の女性と大きなサルが寄り添っている。黒い、短毛のサルである。そう、このサル、チンパンジーである。「オランウータン」とは、赤みを帯びた長い体毛を持つ大型類人猿。校閲からの指摘を受けて「チンパンジー」に直した映画記者T氏は、すっかりオランウータンだと思い込んでいた、と振り返った。「マックス」と呼ばれるサルと美しい外交官夫人との恋の映画。見終わった後、T氏の心に残ったのは、とある夫婦の不思議な関係性や妻のマックスを呼ぶ甘い声、夫のマックスへの複雑な感情とその行く末であり、サルの体毛の色ではなかったのであろう。
これが、映画を見るということかもしれない。五感でもって、一つの世界を追体験する。フワッとなる。ぼーっとする。やがておのおのが自分の好きなように、映画を反すうして、かみこなして、のみ込んだり吐き出したりする。だから、「部活やめるんだってよ」と、自分は登場人物にそう伝達された気分でいるのは、当たり前のことなのだろう。見た人全てに、それぞれのタイトルや、セリフや、登場人物があっていい。ただし校閲記者は、一人一人がバラバラにしたピースを元に戻し、解体される前の形に復元してから読者に提供する。印象をリセットして、たった一つのオリジナルを探すのが、我々の仕事である。
【湯浅悠紀】