先日の芥川賞受賞記者会見で市川沙央さんは「我に天ユウあり」と語りました。このユウが新聞社により「天佑」と「天祐」に分かれました。辞書では併記され、どちらも間違いではありませんが、どう違うのでしょう。そして市川さんが指弾した「傲慢」とは?
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毎日新聞は「天祐」と書いたが…
「非常にうれしく、我に天祐(てんゆう)ありと感じています」
7月19日に発表された芥川賞を受賞した市川沙央さんの記者会見で、毎日新聞はこう報じました。
「天祐」とは「天の助け」のことですが、同じ意味・同じ読みで「天佑」があります。辞書では大抵【天佑・天祐】とひとまとめにしています。
しゃべり言葉を文字にする際、表記が複数あると、どちらが適切かという問題にぶちあたります。たとえば一方が常用漢字でないなら問題なく常用漢字を選びます。しかし「佑」も「祐」も常用漢字ではありません。かといって、一部報道機関が出していましたが「天ゆう」という交ぜ書き表記もなじみがありません。
ここで助けになったのは新明解国語辞典7版です。
【天祐】〔「祐」は、助けの意〕天助。
とした上で「表記」欄で
「天佑」とも書く
とあります。この辞書の編集方針によると【 】に掲げるのは「最も標準的な書き表し方として一般に行われるもの」。それ以外は「表記」欄に示し、【 】で併記はしない方針のようです。なお、最新の8版で【天祐・天佑】と一緒になってしまいましたが、「程度に従って上下に併記する」という8版の編集方針に忠実であれば、上の「天祐」の方がどちらかといえば普通と判断されたと思われます。
ですから「天祐」で問題ないのですが、翌日の各紙朝刊を見て「あらら」。朝日、産経、東京とも「天佑」ではありませんか。そのうち産経はネットで「天祐」なのになぜか紙面は「天佑」になっていました。
四書五経でも混在
学芸部の知人に聞くと、受賞時のコメントは文書では渡されないので、表記は記者が判断するしかないとのこと。校閲としても、間違いでない限り指摘はしません。
しかし、もし「我に天ユウあり」というフレーズがどちらかの表記で定着していて、市川さんがそれを意識していれば、そちらの方が適切なのかもしれません。調べると「天佑、我にあり」という海道龍一朗さんの2010年刊の小説があることが分かりました。しかし、ずっとライトノベルを書いてきたという市川さんがこの歴史小説を踏まえたのかどうか、よく分かりません。
青空文庫で検索する限りでは、吉川英治の小説には「天佑」がよく出てきますが、「天祐」で検索した方でも吉川英治の文が見られます。夏目漱石にも両方の表記があり、量的にもどちらが優勢といえるほどの差は見られません。
もっと昔の、中国の古典ではどうでしょう。
四書五経の一つ「書経」には
惟天佑于一徳(これてんいっとくをたすく)
などがあります。一方同じく四書五経の一つ「易経」に
上九、自天祐之(しょうきゅう、てんよりこれをたすく)
とあり、古代から「天がたすける」という同じ意味でともに使われたことがうかがえます。
しめすへんは「神」の意味合い
円満字二郎さんの「漢字ときあかし辞典」で「祐」を引くとこうなっていました。
部首「ネ/示」は“神や仏”を表す記号。「右」には“助ける”の意味がある。「佑」と意味も読み方も同じだが、“神の助け”という意味合いが強い。「天祐」「神祐」のように用いられるが、現在では「天佑」「神佑」と書くことが多い。
つまり、今の使用状況としては「天佑」が多い、しかし「人」ではなく「神の」という意味を強調するなら「天祐」でよいといえそうです。
この言葉を出した市川さんの気持ちを想像してみましょう。いくつかのインタビュー記事によると、ライトノベルを20年間ずっと書いて投稿してきたが全く日の目を見なかったといいます。ところがふとしたきっかけで純文学を書いてみたらいきなりの受賞。これに天の配剤を感じて「てんゆう」という言葉になったのではないでしょうか。
とすると、神ではなく「天」ではありますが、人偏の「佑」よりも「祐」の方がふさわしいといえるかもしれません。
もっともそれは毎日新聞で「天祐」を選んだことの後付けの理屈にすぎず、本当は単に、市川さんが好きな小説のフレーズを出したかっただけかもしれません。
いずれにせよ、今後本人の書く文章で受賞会見を振り返り「てんゆう」の漢字が出てくるまで、どちらがよかったかは校閲としては結論が出せないということです。
意識しなかった健常者の傲慢さ
ところで、私はこの拙文を書くにあたり、まず図書館で重い大漢和辞典を広げて「天佑」「天祐」の出典を調べ、次に明治書院の新釈漢文体系「書経」「易経」を借りて該当の文言を確認したのですが、これらの作業が、重度障害者の人々にとってどれだけ困難か、考えたこともありませんでした。
肝心の受賞小説「ハンチバック」はまだ入手していず毎日新聞デジタルの孫引きですが、こんな文があるそうです。
私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモ(健常者優位主義)を憎んでいた。
その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。
受賞会見でも市川さんは「一番訴えたいのは『読書バリアフリー』が進むことです。(障害のある人が)読みたい本を読めないのは、権利の侵害だと思うので」と強調しました。
私は電子書籍や電子辞書は一切利用せず、紙の本の質感を愛してきました。それが「傲慢」と指弾され、後ろから撃たれたような衝撃がありました。
障害の害の字はイメージが悪いので「障がい」と表記する自治体や団体があります。しかし、健常者優位の社会そのものが障害者にとって「障害」であるという、視点転換の必要性は感じていました。ただそれは道路などの目に見えやすい環境にとどまっていなかったか。障壁は読書など日常の物事全てに存在します。それを一つ一つ取り除くことは、言葉の書き換えよりもはるかに優先して改善すべき事柄だと気づかせてくれました。
【岩佐義樹】