熱かった国語辞典の夏――の「下」は「三省堂国語辞典から消えたことば辞典」の刊行記念イベントです。載ったことばでなく、辞書から消えたことばの「辞典」はなぜ生まれたのか、その楽しみ方は……消えたことばからも辞書の特徴がうかがえます。
7月23日の「朝まで“生”辞書部屋チャンネル」のイベント、24日の次世代辞書研究会に続き、29日には「三省堂国語辞典から消えたことば辞典」刊行記念のイベント「待って、そのことば消しちゃったの!?」がありました。会場の大阪には行けなかったのでオンライン参加しました。
「消えたことば辞典」は国語辞典ファンの見坊行徳さんと三省堂編修所の共著で、三省堂国語辞典(三国)の前身の明解国語辞典を含め、改訂で削除されたことばを集めた辞典です。確かに、辞書の改訂の際に新たに加えたことばと同時に削除されたことばも気になります。特に三国の8版が2022年に刊行されたときには「『MD』がなくなるなんて!」などとネット交流サービス(SNS)で話題になっていました。
まずは見坊さんがこの本の説明をします。なぜ見坊さんが共著者なのか……は、三国初代編集主幹の見坊豪紀の孫であり国語辞典ファンであることにより、必然でした。
ゲストは三省堂の辞書出版部で三国の担当をしてきた奥川健太郎さんと、国語辞典ファンで校閲者の稲川智樹さん。稲川さんはいつも見坊さんとイベント「国語辞典ナイト」に出たりユーチューブの「辞書部屋チャンネル」で引き比べをしたりしていますが、この本については「一読者」。
この本はあくまで「三省堂国語辞典」から消えたことば辞典であって、ほかの辞書は関係ありません。さらに「消える」ためには、そもそも載っていなければなりません。「このことば消えちゃったんだ」というだけでなく「ああ、こんなことばが載っていたんだ」という意味でも面白いわけです。
稲川さんが「テレビなどで『辞書から消えた』とおおげさに言われましたが、あくまで三国からなんですよね」。そして「書名も『三省堂国語辞典から』と書いているけれど、この部分の字がちっちゃいですね。わざと小さくしたのか……」と言うもので、奥川さんが「もともと『三国から』というタイトルにしようとしたのですが、一般の人にはわからないだろうということで『三省堂国語辞典から』にして、結果タイトルが長くなったので字が小さく……」と事情を説明しました。
一つの版だけ載って削除されたものを紹介していきます。例えば「カチューム」(カチューシャのように見える、ゴムでとめるヘアバンド)については脚注で「あっさり削除しすぎではないか」と書いています。「飯間さんに言われていましたね」(奥川さん)。見坊さんと三国編集委員の飯間浩明さんとの対談で、飯間さんが「叱られてしまいました」と言っていました(『三省堂国語辞典から 消えたことば辞典』出版記念対談)。
一つの版だけで削除されたことばについて、「編者としては敗北感がありますね」と奥川さん。10年は使われると思って入れたのに……ということですね。
奥川さんが編集者としての悩みを話します。例えば「ルイセンコ学説」ということばが一時載っていたけれど、この説にお墨付きを与えるようなことにもなりかねないわけです。同様に、よく言われる「3秒ルール」ということばについても、載せようとしたことがあるけれど、「載せていいのか?」と。3秒以内なら食べていいよと言っていいのか?と考えてしまったのだそうです。
いつだったか、ある辞書編集者と雑談をしていて「3秒ルール」ということばが出てきたときのことを思い出しました。ふと「そういえば、これって(自分の辞書には載せていないけれど)辞書に載っているかな」「三国なら載せているでしょ」と話していたものの、後で「あれ、載っていない」と意外に思ったのです。三国も載せようとしてためらったのだということが、今わかりました。
「エアシュート」は初版(1960年)だけで消えた語。同じ三省堂から出ている辞書でも新明解国語辞典には載り続け、大辞林も「エアシューター」の形で載っています。こうしたことから、辞書の方針がよく表れていると見坊さんは言います。エアシューターは、気送管とも言っていましたが、30年くらい前は筆者の職場で活躍していました。見出しの手書き原稿や図版の刷りなどが校閲の部屋に送られてきたのです。「消えたことば辞典」にはイラストもあり、懐かしく読みました。
「人間文化財」「二者選一」「モノセックス」を見坊さんが挙げ、「これ、別の言葉が定着したやつですね」と稲川さん。それぞれ「人間国宝」「二者択一」「ユニセックス」が現在は普通に使われています。新しい概念が出てきたところで呼び方が定まらない中、消えていくことばがあるのです。「こういうのも悔しいんですかね、『二者択一』にしておけばよかったーっとか」と稲川さん。奥川さんは「当時は普通に使っていたかもしれませんし……」と。見坊さんによると、見坊豪紀は「マーガリン」とするか「マルガリン」とするか迷った末に「マルガリン」の表記を採用したそうです。その後「マーガリン」が定着して悔しがったとか……。新聞に新たな語が出てきたときに表記に迷うわたくしたち校閲記者と似たところがあるように思いました。
エアシュートのイラストもですが、挿絵は「萌える国語辞典。」さんが描いたものです。「ワードハンティング」の項では看板らしきものを見ながらメモをとる男性とカメラを肩にかけてスマートフォンを向ける男性の2人が描かれています。これは見坊さんが、はっきり見坊豪紀と飯間さんを描いてほしいと言って描いてもらったとのこと。現実では見坊豪紀と飯間さんは直接一緒に仕事をしたことはないので「夢の共演」。感動的です。
見坊さんが「終雪(しゅうせつ)」を紹介します。「その冬の、最後の雪」の意味で、春の終雪は「名残雪」とも言うことが脚注に書かれています。三省堂の資料庫でこのことばの見坊カードを見つけたところ、名残雪についても書かれており、65年の用例だったそうです。ちょっと待てよ……。稲川さんが鋭く気づきます。三国の8版の「名残雪」の項には「由来」として「ミュージシャン・伊勢正三の造語」と書かれています。歌謡曲「なごり雪」は74年です。それより前の例を見坊豪紀は採集していたわけです。造語ではあったかもしれませんが、一同「(次の)9版で……」。
と、紹介したのはほんの一部。実際はもっと濃い内容の2時間のイベントでしたが、気がついたらもう終わりの時間です。
「一つの版だけで消えてしまうのは、それほどに敗北感があるものなのか」という質問があり、奥川さんが「国語辞典に載せるのは新語辞典よりハードルが高い。今後10年使われることばということで取捨するわけで、育っていくことばかなと思っていたけれど……心が痛む」と答えます。「それがこの本で明らかになってしまった……」と稲川さんが言い、みな苦笑。
「消えたことば辞典」は三国だからこそ成り立った本なのだろうといいます。そういえば、岩波書店の編集者は、広辞苑は「消さない」と言っていましたし、100年のことばを載せるという岩波国語辞典もここまでは「消えない」だろうと。ここにも辞書の性格が表れます。
消えたことばから三国を知る……イベントでそれをより深く感じることができました。
三国から消えたことばは2万くらいあるのだそうです。今回の本には1000項目が語釈とともに載り、項目だけの語を足しても2000項目です。ということはまだ10倍もの「消えたことば」があることになります。そこで、後日、見坊さんに「第2弾」のようなものはつくらないのかと尋ねたところ、つくりにくいとのことです。50音順に辞書形式でつくったため、同様の形で別の辞書をつくるとどちらに載っているかわからず両方引かなければならない……ようなことになります。なるほど、それならば、中身を増強して「第2版」を出してくださるといいなと思いました。
上下に分けて、簡単にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。季節は巡り、もうすっかり寒くなってしまいましたが、あの国語辞典をめぐる3日間はいまだに「熱さ」とともに思い出されるのでした。
【平山泉】
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