以前、司馬遼太郎さんは大和言葉である「おもう」は平仮名で使うという証言に触れたことがありますが、実際にはどうでしょう。「燃えよ剣」を例に報告します。ちなみに、今年は司馬さんの生誕100年です。
以前、別の本の引用の形で、司馬遼太郎さんが「おもう」を平仮名で書くという証言を紹介したところ、「燃えよ剣」では「思う」も使われているという指摘を受けました。再読すると、確かに「思う」もたくさん見られ、少数ですが「想う」もあります。使い分けているのでしょうか。
目次
新聞で「想う」が使えないのはなぜ?
まずは既に掲載済みですが、「想う」の表記についての読者とのやりとりをかいつまんで再現します。「校閲記者の目」という本にも収録されています。
投稿欄で「想う」という字を、タイトルを含めて使いたかった筆者が、毎日新聞の担当者にこう言われ、諦めたとのことです――「想う」は「おもう」と読ませられない、使うにはルビが必要になる、見出しにルビは付けられない、と。後日、掲載された文章を見た投稿者の周りの誰もが「想う」がいいと言い、国語の先生にも「『思う』では気持ちが伝わらない。ルビの問題ではない」と言われたそうです。「普通に使い、誰もが普通に読んでいる、きれいで、意味深い『想う』が使えない不思議が、納得いきません」と異議申し立てをされました。
これに対する用語担当者の回答です。
「想」はかつての当用漢字表でも今の常用漢字表でも「ソウ」の音読みだけが掲げられています。したがって、少なくとも学校では「想」に「おも」という読みは教えていないはずです。新聞は基本的に義務教育で学ぶ範囲内の漢字を心がけていますから、「想う」は認めていないことになります。
一般的には「想う」は誰でも使う平易な言葉であり、国が決めた線引きに新聞が従うことはないと思われるかもしれません。しかし「想う」を認めると「思う」との使い分けの線引きをどこに定めるかという問題に突き当たります。
新聞はできるだけ冷静で客観的な文体で書くことが求められます。多分に感情の入る表記は、各記者によって判断基準が揺れ、結果的に混乱を生むことが予想されます。
歴史的には「おもう」に「想う」の字を当てることが一般的になったのは、それほど昔からではないようです。大野晋さんの「古典基礎語辞典」には「おもふ」「おもい」などの項で膨大な用例が集められていますが、ほとんどが平仮名か「思」です。「想う」は近代以降の文学作品から盛んに使われるようになったのであり、日本語の歴史からいえば圧倒的に長い間「思う」は使われてきました。
また、「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(新潮文庫)によると、司馬遼太郎さんは「思う」を漢字で書きません――とあります。井上ひさしさんの文章によると
このことについてわたし、一度、司馬さんにお聞きしたら、「《おもう》というのは、どう考えてみても、大和ことばなんだよ。これを漢字で書くのはおかしい。それで平仮名にひらいているんですよ」というお答えでした。
司馬さんは「おもう」の漢字を使わなかった?
――ということで、「想う」の代わりに「おもう」という平仮名表記も提案してみました。
さて、ここから本題です。以上のやりとりを「毎日ことば」で流したところ、ある読者からツイッターで、司馬遼太郎の「燃えよ剣」には「思う」の漢字も使われているという指摘をいただきました。
本当は「燃えよ剣」に限らないのですが、私も好きな作品なので持っていた新潮文庫で再読しました。
確かに「思う」も「おもう」も両方使われていて統一性が感じられません。数えたわけではありませんが、「おもう」が目立つものの「思う」も同じくらい出てきます。
例えば、新選組副長の土方歳三と恋人のお雪とのやりとりを見てみましょう。
「わしはこのさき流離にも似たたたかいをつづけてゆくか、それとも一挙に世を徳川のむかしへもどしうるか、将来(さき)のことはわからぬものだ。こういう男と縁のできたそなたが哀れにおもう」
「いいえ、お雪は、自分の現在(いま)ほどの仕合わせはないと思っています」
不幸な結婚を前歴にもつお雪は、ああいった暮らしを何年つづけていっても、このふつかふた夜の思い出に及ばないと思っている。
「――ただ」
絶句して、お雪は顔を伏せた。肩で、泣いている。この二日ふた夜が、万年もつづけばよい、とつい望めぬことをおもったのであろう。
次に、新選組で一二を争う人気の沖田総司が病死するシーンを見てみましょう。
――死ねば。
と総司は考えている。
(たれが香華をあげてくれるのだろう)
妙に気になる。くだらぬことだ、とおもいつつ、そういうひとを残しておかなかった自分の人生が、ひどくはかないもののように思えてきた。
そして死後、彼を慕う市村鉄之助の場面です。ちなみに市村鉄之助というのは数少ない新選組の生き残りで、土方が自分の写真を預けて箱館から江戸へ帰し、後に西南戦争で戦死した人です。
鉄之助は感激し、声をあげて泣いた。沖田ほどのひとが、それほど自分の身を想(おも)っていてくれたのか、と。
(自分を。――)
と、身がふるえる思いであった。
「想(おも)う」も使われていますね。こうしてみると微妙に使い分けられているような気もするし、単にその時の勢いできまぐれに選んでいるという気もします。
平仮名は「ゆっくり読んでね」と要求する
ただ、「思う」「おもう」は同じくらいよく出てくるのに対し「想う」はここぞというときにのみ限定的に使われていると思われます。
先の読者への回答にもあったように、昔はほとんど使われなかった「想う」が最近は一般的に使われすぎるきらいがなきにしもあらずです。しかし、例えば「思い出」と「想い出」の線引きをどこでするのでしょう。思い入れの大小とすると、書き手の個人的な印象になり、読者には必ずしも共有されません。そういえば「思い入れ」という言葉は一般的にも「想い入れ」とはあまり書かれないのではないでしょうか。思い入れの大小で漢字を使い分けることの難しさがここにも表れています。
次に「おもう」という仮名書きについて。大和言葉は平仮名で書くという司馬遼太郎ですが、少なくとも「燃えよ剣」に関しては厳密に徹底させているわけではないようです。
大和ことば、和語とも言いますが、それをすべて平仮名で書くと、どこに区切りがあるかわかりにくい文章となってしまいます。ただし、それは裏を返せば、ゆっくり読むことを読者に要求する文章になるともいえます。
これは校正にとっても大事なことで、平仮名は文節を頭に入れつつ、ひとつひとつ傍点をつけて(実際に点を付けなくてもそのような気持ちで)読む必要があります。でないと、脱字や文字の入れ替わりなどを見逃すことになります。
司馬遼太郎さんの文章は抜群に読みやすく、するすると読み進めてしまいます。特に「燃えよ剣」は、負ければ負けるほど絶望的になるどころか逆に生き生きとしてくるという土方歳三という類いまれな人物像を描き出し、ページを繰るスピードも思わず速くなります。そんななか、
くだらぬことだ、とおもいつつ、そういうひとを
という平仮名が続く部分があるのは、「ここはゆっくり読んでね」という活字のメッセージなのかもしれません。司馬さんが意図していたかどうかは別にして、ですが。
「木も森も」が校閲の視点
本になる前に校正の人がばらばらでいいか聞いたかもしれませんが、たぶん作家だからということで、そのままになったのではないかと思います。なんだか、そういうふぞろいが気になるどころか、逆に味というか、独特のリズムになっているような気もします。
でも、これが毎日新聞の記事だと、やはり校閲か、編集者の直しが入るでしょう。もちろん小説なら勝手に直すことはせず、作者に「この表記の違いは意図したものですか」と確認して直したりそのままにしたりすることはあります。でも時間に追われる新聞の一般記事ではあまりそういうことを気にせず気の付いた表記不統一があれば統一しています。
もっともそういう細かいことばかり気にしていると、他の大事なところを見逃すこともあるので、注意しなければならないのですが。
ただ、私の経験からいえば、いつも細かいことを気にする人が大きなミスをする頻度は、細かいことを気にしない人よりも少ない気がします。「木を見て森を見ず」ではなく「木も森も」視点を変えて見ることが校閲・校正の正しい見方といえるでしょう。
【岩佐義樹】
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