前回、校正者・大西寿男さんの著書「校正のこころ」について、大西さんにもお話を伺いながらご紹介しましたが、その他にも校正、言葉に関するさまざまなトピックについて話してくださいました。一問一答形式でお届けします。
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差別の問題は「生きる上でのテーマ」
――出版社から見本誌や見本本が届いたときに、ご自身が入れた鉛筆(指摘)がどこまで反映されているか確認しますか?
大西さん ひとつひとつはしませんが、あれはどうなったかなと気になったところは見ちゃいますね。直ってたら「あ、直ったんだ」って思うんですけど、直ってないとどういうやりとりがあってこのままになっているのかな、と思います。特に差別表現に触れているところは気になりますね。
――差別表現に絡んで、日々気をつけた方がよい表現がアップデートされていますが、どのようにアンテナをはっていますか?
大西さん 特別なことはしていないのですが、差別の問題は僕にとって以前から生きる上での大きなテーマなんです。あらゆる差別意識は身の回りにごろごろあって、常に意識にあります。自分が成長していくと、いろんな差別に気がついたりとか、その時々に突きつけられるものがあります。
たとえば自分が10代から20代になるころはフェミニズムが起こってきたくらいのころ。当時お付き合いしていた女性がそういう運動をいち早くキャッチしていて、すごく教えてもらいました。
自分が体を壊してパニック障害になってしまったときは精神障害者に対する差別とか、その時々のトピックといったらいいのか、その都度知らずにはいられないですし、どういうことだろうっていろんな人と話もします。
――「校正のこころ」の中に、ことばを「正す」「整える」の2種類が書かれています。時間がないときに同時並行で2種類の作業をするのが難しく感じるのですが、「まずは『正す』校正で読み、次に『整える』校正」など作業を分けているのですか?
大西さん そういう分け方はしないですね。「正す」「整える」は車の両輪みたいなもので切り離せないですから。ただ何回も読む中で、1回目の力点の置き方、2回目の置き方というのはあります。
1回目はとにかく通して読んで、後で調べたいところをメモしたりしています。ファクトチェックをしていると進まないのでなるべく後に。それよりまず作品の中で矛盾がないかを見ます。時間軸や流れ、長編小説だったら設定が途中で変わっていないか。それから事実関係の確認をすることが多いですね。最後に登場人物の造形についてや、章ごとの密度のバランスなど、全体的なところを見ています。
小説の世界に没頭したいが……
――仕事上での悔しい思い出などはありますか?
大西さん あまり言いたくないお話ですね(笑い)。
見落としもいろいろあるんですが、一番大きかったのは、再校で入った赤字が、通常三校もしくは念校で確認するはずが赤字通り直っていなかったことです。結構大事なところで、なんで気付かなかったんだろうと。どこかで油断があったというか。自分の意識の範囲外で見落としていたような感じです……。難しい作業ではないのに、ポカッと落とし穴があるのがすごく怖いですね。
もう一つは見落としじゃなくて、もっと調べたいけど締め切りに間に合わせるためにこのへんで手を打たなきゃいけないとか、そういうのはすごく残りますね。
――集中力を持続させるコツなどはあるんでしょうか。
大西さん いまだに分からないんですよ。みなさん一番苦労されているところではないかと思います。机を変えたりいろいろ試してみるんですけど、その時々の自分の状態も違うし、仕事の内容も違うので、その場に合わせて切り替えないといけないとは思っています。
特に小説の校正だと、その世界に一度入ったら出たくないというのがあって、途中で食事をとるとそれが雲散霧消してしまうので、できれば食べずにこのまま続けたい。でも体への負担もありますから、せめぎ合いみたいなところがありますね。
毎回手探りで苦労しています。一人一人どんなふうに工夫されているかアンケートをとってみたいですね。
AIが書く文章は楽しみ
――最近チャットGPTが話題で、そのうちAIが書いた文章を人間が校正するということも出てくるのかなと思ったのですが、その場合、「校正のこころ」の中でおっしゃっている「言葉の肉声」の質が少し違うものになるのではないかと感じています。AIについてどのようにお考えですか?
大西さん AIがどのような文章を書いてくるのかというのは楽しみではあります。子どものころ読んだSF小説や漫画のようなことがどんどん現実化しようとしていて。
AIが書いた小説が文学賞に入選したということも起きていますが、それが今想像している以上に進むでしょうから、そのときに人間がそれを読んでどう感じるのか楽しみですね。何も違和感がないのであれば、じゃあ「言葉」とは何だろうとそこで考えることになりますから。生き物でなくても言葉を生み出したり、少なくとも操ることはできるのかとか。
――仕事以外で文章を読むときに、校正の目で見てしまうことはありますか?
大西さん あんまり仕事みたいには読まないですね。まだ新人だったころ、ベテランの先輩から、「この仕事をすると自分の好きな読書ができなくなるよ」と言われたので、ちょっとおびえてたんです。でも僕の場合はあんまりそういうことはなくて、仕事は仕事、読書は読書であまり影響はなくてよかったです。
文字の組み方が気になることは時々ありますね。各社の組み方のルールがあるので、「ここはこうなのね」と。
もし差別表現に出くわしたら
――いわゆる「ヘイト」が出版物に載ったときに、SNSに「校閲は何をやっていたんだ」と書き込まれることがあり、複雑な思いを抱きます。校閲ができることがあるのか、そこは編集権の方に踏み込んでいかないか、と。そういう声にどう答えたらいいんだろうと考えてしまうのですが、執筆者の思想信条に踏み込むような指摘についてどう考えますか?
大西さん それまでは校正・校閲という仕事があることをあまり知られていなかったので、そういう問われ方をすることはなかったんですよね。期待や関心を持たれるようになってきてありがたいのですが、そういうふうに言われるのは、まだまだ校正・校閲が誤解されているということだと思うんです。
そもそも校正・校閲には決定権がないですし、現場や媒体によって校正者の位置づけも違います。(SNSの反応は)過剰な期待の裏返しの失望と怒りみたいな感じという気がするんですけど、そもそもその期待が誤解なので、ゆっくりほぐしていかないといけないとは思うんですよね。
あとこれは校正者自身の問題ですが、どこまで責任を負えるのか。僕は幸いあんまりヘイト本などの校正をせずにきたんですが、いろんな意図的、無意識の差別的な表現はあるわけです。それに対して校正者が何ができるのかというと、意見を出すことですよね。それもできるだけ、何が問題なのか、この表現がこのまま世に出たらどういうことが起こるのかとか、そういうことが分かるように伝えて考えてもらう。それ以上のことってあんまりできないです。
もう一つ、本来、本の場合は作者がいて、その作者が考えたものをたくさんの読者に読んでもらうのが出版の役割で、その本はやっぱり作者のものなんですよね。だから自分の価値観や感覚とは逆のものが書かれていても尊重しないといけません。
でもただ黙って従うのもよくないじゃないですか。もしかしたらその人自身の考えが、5年後10年後には変わっているかもしれない。そう考えたときに「読者はこういうふうに受け止めるんじゃないでしょうか」って一つ一つ考えてもらって。
それでも「これが書きたいんだ」ってことであれば、それはその人と出版社の責任ですから止めることはできないですし。だけどとにかく考えてもらうことが一番大事で、何が問題なのか、ただ炎上するのが怖いから無難に言い換えるということではなくて、自分が書いた言葉に何が潜んでいるのか、誰よりもその言葉の生みの親に気付いてほしいっていうのはありますよね。
自分が差別表現などにあたって考え込んだことを自分一人の財産にするだけでなく、編集者や著者に伝えてその経験を共有できたらなと思います。
――新聞校閲の仕事でも「こういう考え方もありますが、過去にこういう事例があります」と編集者や出稿者に提示して、受け入れられないこともありますが、今のお話でこれからもめげずに出していこうと思いました。
大西さん はい、ぜひ出してください。出さないと何も始まらないので。
たとえばセクシャルマイノリティーに対する表現は、10年前は校正者もほとんどノーチェックでしたが、今はものすごくセンシティブにチェックします。そういうふうに世の中の感覚も認識も変わるので、いまはだめでも明日は分からないことはたくさんあるというか。自分もいま気付いていない自分の中の差別が絶対あるはずなので、それがこれからあぶり出されていく。
みんなそうですよね。「自分は差別とは無縁」という人は僕はすごく懐疑的というか、そんなことはありえないと思ってるんです。必ずみんな少なくとも差別する人間ではあると思っていて。あと差別されているのに実は気付いていないとか。差別っていうのは特別な一部の怖い話ではなくて、日常的に隅々まで行き渡っていることですよね。誰もそこから逃れることはできないと思っています。
新聞校閲の職場はうらやましい
――「校正のこころ」の中の「組織としての校正」に書かれていたフィードバックの大切さについて、新聞校閲をしていて日ごろ感じています。「このフィードバックがよかった」「フィードバックがなくて痛い目を見た」などの経験はありますか?
大西さん フィードバックって、自分が校正で出した疑問がどう解決したか、どう取捨選択されたかが知りたいということと、他の人がどういう校正をやっているのかを知りたいという2種類があるんですよね。直接自分のやったことに対するフィードバックじゃなくても、一つの作品・文章がどう変わっていったかを知ることができれば一番いいんです。
だから出張校正に行って、編集者も入れて何人かで、机を囲んでやるっていうのは理想的です。他の人の仕事も見ることができるし、自分の校正に対してその後どうなったかというのもリアルに分かる。ただ、10年くらい前から、だんだん出張校正を以前みたいにやることがなくなってきています。フリーランスでやっていると一冊の中のごく一段階しか関わりがないから、こちらから求めていかないとつながりを得られないところがあるんです。
昔は、時間の余裕を持って本を作ることができたので、僕の担当した初校のゲラに対して著者校正でこうなったとゲラのコピーを送ってくれたり、ここは見落としていたと具体的に教えてもらったりして、ありがたかったですね。フィードバックがないと、その後に何が起こったのか分からず、手が届かない不安とさみしさみたいなものは常にあります。
だからみなさんみたいに同じ職場で、校閲以外もたくさんの人が集まって毎日ひとつの紙面を作っていけるというのは素晴らしいしうらやましいです。ずっとそうであってほしいと思いますね。
【まとめ・渡辺美央】