若手の仕事を見渡す立場になった中堅の校閲記者はどんなことを考えているのか。校閲記者師弟対談・第2弾は、ようやく仕事に慣れてきた3年目記者が、入社時に仕事を指導してもらった「先生」で、昨年より主任として職場を引っ張る立場となった先輩記者に聞きました。
【まとめ・西本龍太朗】
佐原慶(さはら・けい) 2012年入社。校閲センター東京グループ主任。14年衆院選~17年衆院選のデータ分析、18年平昌五輪、最新の19年版「赤本」の改訂などに携わる。月刊誌「ニュースがわかる」の校閲も担当。中高時代は水泳漬けの日々を送り、大学では「教育の社会学」に興味を持つ。小さいころから採点業務や添削・修正など「赤を入れる」作業が好きだったため校閲の仕事を志望した。西本記者とはハマっているゲームについて日々情報交換している。
西本龍太朗(にしもと・りょうたろう) 2017年入社。4年余り出版社にて編集業務に携わった後に転職。校閲を仕事にしようと考えたのは比較的最近のことだが、振り返ってみれば小・中学校のころから新聞や書籍の誤植を見つけては発行元に問い合わせるなどしていた。大学では音楽学を専攻。好きな作曲家は武満徹とアントニオ・カルロス・ジョビン。生誕250年の影響もあって出社前にベートーベンのピアノソナタを弾くのが最近の日課。
目次
初校と再校 役割の違い
――佐原さんは昨年に面担からキャップ(主任)になって、仕事の役割としては初校よりも再校を担当することが多くなりましたよね。校閲の作業として、初校と再校で変わったと感じるのはどういう点でしょうか。
■面担、キャップ 1面、社会面、運動面などの各ニュース面に配置され、主にその面に掲載する原稿の初校を担当する人を面担という。デスク、キャップと呼ばれる職位にある人が再校を受け持つ。担当する面は基本的に日替わりとなっている。
◆再校だと四つとか五つとか、複数の紙面(に載せるだけの分量の原稿)を見なくてはならなくて、それはある意味では自分が担当する面がないというか、「この面だけに集中すればいい」というのがなくなったことかな。だから今まで以上に優先順位を付ける必要があって、言い方は良くないかもしれないけど、場合によっては「割り切らなきゃいけない」ところもある。面担のときの「完璧にしよう」感が、キャップになって「とりあえず乗り切ろう」に変わったというか。
――ニュース面の場合、まず面担が初校をして事実関係などを調べます。再校を担当するデスク(副部長)やキャップは、一度校閲された原稿を読む際にどこまで調べ直しているのか気になります。佐原さんはどうしていますか。
◆各面のメインの記事が降版時間の30分前になって一気に出てきたりすると、改めて調べながら読むことは時間的に不可能なので、ほぼ素読みになってしまうことも。ただし人物名など間違っていたら「即アウト」になりそうなもの、日付などすぐに調べられるものは、面担がチェックしていても最低限の範囲で調べ直すね。あとはモニターに印が付いていなくて、面担が調べていなさそうな箇所もチェックするようにはしているかな。まだキャップ歴が浅いから、適切な判断ができていない部分もあるけれど……。後回しにすべきことも気になってしまって調べてしまうことがあり、まだ面担時代の癖が抜けていないです。
■降版時間 整理記者の端末で組まれた紙面データを印刷所に送る時間。降版すると間もなく印刷所の輪転機で新聞が刷られるため、降版時間後の修正は原則としてできない。
■モニター 記事が出稿されるとプリンターから出力される、原稿が印刷された紙。校閲作業はモニターを読みながら進められる。モニターの出力によって出稿状況を把握している校閲記者も少なくないため、プリンターにトラブルが発生したりしてモニターが行方不明になると騒動になることもある。校閲職場におけるペーパーレス化への道のりは険しい。
校閲の形跡 読み方のスタイル
――モニターに印が付いているかどうかという点についてなんですけど、印の付け方って人によってだいぶ違いますよね。文章をなぞるように線を引いている人もいれば、文字ごとに丸で囲っている人もいる。佐原さんは文字の中心に沿って赤ペンで線を引いていますが、どういうふうにそのスタイルを確立したんですか。
◆ペンの入れ方については「先生」から特に何も指導は受けなかったなあ。割とこの職場は原稿を読むときにシャープペンシルを使っている人が多いけど、自分は「校閲記者といったら赤ペンだろう」みたいに思いこんでいて、入社当初から直しだけでなく線を引くときにも赤ペンを使っていました。
■「先生」 職場に配属された新人校閲記者が2週間程度師事する先輩校閲記者。新人は校閲作業の進め方や調べものの仕方、用語のルール、出稿部への問い合わせ方法、おすすめの食事などを「先生」から学んで独り立ちしていく。
◆最初のころは細い赤ペンで線を引きつつ、事実関係などを調べた箇所に関しては太い赤ペンでさらに線を引いていました。でも、そうすると直しのために書き入れる赤と見分けが付きにくくなってしまうこともあって。それでその方法をやめて、太い赤ペンの代わりに細い赤ペンを使って丸で囲むようにしました。印刷された文字がつぶれて見えにくくならないようにしているね。
◆そういえば西本くんは最近、太い赤ペンで読んだ箇所に点を打っていく方式に“イメチェン”したよね(笑い)。それはどうして?
――性格の問題だと思うんですけど、線を引きながら読むと時々「線を引くこと」自体に意識がいってしまうんです。それは、逆に言えば「読むこと」に100%意識が向いていないということでもあって。「読む」と「書く」という二つの行為を同時にするよりは、読むことだけに意識を集中させた方がちゃんと頭に入ってくるような気がして……。時間に余裕があるときはじっくりと線を引きながら読むこともありますけど。
◆自分の場合は「今ここ読んでいる」って意識しやすいのと、内容が頭に入りやすいということもあって線を引いているけど、そうでないなら本末転倒だしね。みんな基本的には最初は「先生」のやり方を見ているはずだけど、「先生」と同じ読み方をしている人っていないよね。あるときに自分の方法を編み出しているのがおもしろい。
「直さない」のも仕事のうち
――校閲をしていて、苦手な言葉ってありますか。
◆それはもちろん。異字同訓とか同音異義でどちらを使うべきなのかいつも迷う言葉はあるよ。赤本で何回確認しても「どっちでもいいのではないか」という気がする言葉もあれば、過度に直したくなる言葉もあるしね。もちろん使い分け自体が難しいということもあるのだけど。例えば「はやい」。スポーツ関係の記事で「守備の出足がはやい」「タイミングがはやく……」といった表現が出てくるけど、これは速度的(=速い)とも時間的(=早い)ともいえる。個人的には全部「速」にしたくなる……。
■赤本 校閲記者必携の書。正式名称「毎日新聞用語集」。表紙の色が赤いことからこの通称で呼ばれる。非売品。
――「制作・製作」なども、いちいち赤本で確認してしまいます。
◆「制作・製作」は芸術的なものか実用的なものかで使い分けているよね。もっと悩むのは「作成・作製」。基本的には「成」でよくて、設計図や地図の場合は作製(=製図)。でもグラフは「(データを基に)作成」を使うことも。
それからいつも悩むのは「合わせる・併せる」「押さえる・抑える」「伸ばす・延ばす」「乗せる・載せる」「探す・捜す」の使い分けや、挙げ句ではなく「揚げ句」(新聞として統一している表記)とか、「やおら」の意味(落ち着いてゆっくりした)とか。やおらは漢字で書いたら「徐ら」つまり「徐々に」である、というふうに考えれば分かるのだけど。
――常用漢字表に記されていない読み方(表外音訓)のために読み仮名(ルビ)を付けなくてはいけない単語なども、まだまだ見逃してしまうことが……。
◆表外音訓を含む単語については赤本では言い換えが示されているものもあるけど、逐語的な対応もあるしね。また書き換えるにしても、ルビ付きで漢字とするのか、それとも交ぜ書きにするのか判断が難しいものもあるね。
――言い換えなきゃいけない言葉なども含めて、そもそも校閲として「直す・直さない」の判断基準ってすごく難しいですよね。例えば「~は~は」のように一つの文章で助詞の「は」が連続しているとき、一方を「が」にしたほうが読みやすいということがあります。でもそれを果たして直していいものかどうか……。
◆今の例に関して言えば、基本的にはどちらかを「が」にすることが多いかな。とはいえ「は」と「が」は意味としてはどちらでも通じるけれど、ニュアンスは同じではない。「彼は泣いた」と「彼が泣いた」では、前者は「AさんやBさんは泣いていないけど彼は」、後者は「AさんでもBさんでもなく彼が」という感じがあるような。
――その「同じではない」ということを分かった上で、記者はあえて「~は~は」と書いているかもしれないし、あまりその違いを気にしないで書いているかもしれない。そこまでのニュアンスは文字からは読み取りにくい場合もありますよね。
◆西本君は、ちょっとこなれない表現だととりあえず印を付けるタイプだよね(笑い)。「伝わればいいや」というタイプではなくて。
――そうかもしれない(笑い)。でも最近は、新聞記事の文体といっても、そこに書き手の個性が認められてもいいのではないかという思いもあります。
◆署名もあるし、そこは難しいよね。一般のニュース記事か「記者の目」のような自分の視点から書く記事かで記者の思い入れも違うと思うし。「こっちの表現がいい」というのがあっても、日本語として間違いでなければ結構尊重するところもあるかな。
――先日あるデスクが「直さないからといって仕事をしていないわけではないし、直さないで通したということが仕事をしたということにもなる」と言っていました。
◆校閲記者は別に直すことだけが仕事じゃなくて、誤解なく伝わるのであればある程度は書いてあることを尊重する姿勢も大事だと思うな。若手がモニターに書き入れている直しでも「このぐらいなら許容範囲じゃない?」というものであれば元のままにしておくこともある。ただ、筆者の伝えたいことがこの書き方だと伝わらないところ(例えば、読点の打ち方一つにしても、どっちの意味にも取れてしまって紛らわしかったりする部分)に関してはちゃんと直すべきだと思っています。それが筆者のこだわりだったとしても、読者にとって分かりにくかったら意味がないので。
便宜的かつ論理的? 新聞表記のルール
――前に出た記事「校閲記者1年生が抱く悩みと疑問」で対談していた2人が、仕事と生活のオン・オフを切り替えているつもりでも実は言葉遣いや表記が気になってしまう、ということを言っていました。そのあたりはどうです?
◆気になる(笑い)。私生活の文章も赤本に準拠して書いているね。「ひとつ、ふたつ」は漢数字で書くし、時間は算用数字。「うれしい」は平仮名にするね。さすがにルビは付けないけど。友達とのメッセージでいちいち「拮抗(きっこう)」とか書いたらうざったいし(笑い)。
――僕も最初のうちは慣れるためにも日常生活でも赤本に沿っていた方がいいかなって思っていたんですけど。
◆前にそんなこと言った気がする。その方が覚えられるとか、良くないことを言った気がする(笑い)。
――初期の段階としてはある種の訓練として必要なことだったと思う半面、言語感覚として新聞的な文体に依存してしまうのは怖いなという気もしていて。最近はメールを書いたりSNSに投稿したりするときにあえて赤本のルールから逸脱した書き方をすることもあります。
◆新聞でこれだけきっちりルールを定めているのは、読み手への分かりやすさだったり、書き手によるばらつきを抑えたりという側面が大きいと思います。新聞記事であっても、個性が出るもの(外部筆者の原稿など)に関しては認めている表記などもあって、絶対的なルールはない。基準をどこに置くか、ということなので。
――例えば本を読んでいて、毎日新聞の表記との違いが気になることがありますか。
◆読んでいて「あっ」と思うことはあるけれど、それが本の良さでもあるよね。一例として「あたたかい」は、新聞では気象・気温関係なら問答無用で「暖かい」で、「部屋の外があたたかい」というときに「温かい」となっているのを見逃したら「ああ恥ずかしい」という感じだけど、辞書で「あたたかい」を引いてみると、「暖かい・温かい」としていて厳密に使い分けていないこともある。だから書き方としてどっちかが間違いなのかというと、どっちも間違いではない。
赤本で決めているのは、あくまでも便宜的というか「間違いじゃないけど、あえて選ぶならこちら」というのが意外と多い。逆に日本語としてふさわしくない表現が使われていると「これって校閲の人は指摘したんだろうか……」と考えてしまうことはあります。
――先日、友達と話しているときに校閲していて気になる言葉を聞かれて、重複表現とされる「かねて(予て)より」を挙げようとしたんです。それで、間違っていたらいけないので話す前に念のためにスマートフォンの辞書アプリを引いてみました。そうしたら「かねてより」という項目があるのを見つけて「これは言えないな」となった(笑い)。
◆「予」に「あらかじめ」という意味が入っているので「より」は不要。だから「かねてより」は「かねて」に直す。論理的に考えるとそういうことなんだけど、では日本語として間違いかというとそうとも言い切れない。「かねてより」とかも結構古くから使われていると思うけど……。
――(辞書アプリ「精選版日本国語大辞典」を確認して)古今や源氏の用例が載っています。
◆「かねてより」「一番最初」「各国ごと」などは普段の会話では使っちゃうし、テレビのニュースでも言っているしね。こういうのは誤用というより、ルールを決める際に論理的に考えて、重複しているから「より」も「一番」も「各」も無くてよいことにしているわけで。
――直しを出すという意味では、やっぱり相手を説得するためにもイメージより論理を優先せざるを得ないところはありますもんね。
◆新聞はルールとして厳格なところがある。「映(ば)える」がそうだったように、新聞で使っているイコールその言葉が市民権を得て認められ始めている、という見方もなくはない。そういう意味では新聞は言葉に対して保守的かもしれない。一方で、個人的には例えば「明るみに出る」が「明るみになる」となっていたら直したい。別に「なる」でも伝わるんだけど、「明るみ」の「み」は「高み」「深み」と同じく場所を表しているから、明るい場所に「なる」のではなくて「出る(さらされる)」のがふさわしい。そういうところは大事にしたいです。
デジタル時代の悩み
――校閲記者の視点として読み手に親切かどうかという点は大切だと思うのですが、きょう聞きたかったことの一つに「SNS問題」があります。毎日新聞では記事に「SNS」という語が使われるとき初出は「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)」とするのがこれまでの大勢ですが、「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」と言ったところでSNSの説明にはなっていないという……。
◆AI(人工知能)やAR(拡張現実)という日本語訳は短いし分かりやすい。でもSNSは単純に英語の読み方を片仮名で書いただけだから、分かりやすくなっているかどうか……。通信社の配信記事では「会員制交流サイト(SNS)」となっているね。昨年、赤本を改訂するにあたって議論したことだけど、SNSは「サービス」が分かりにくいのではなくて「ソーシャル」と「ネットワーキング」が分かりにくい。だからそこを日本語っぽくする方が説明としては分かりやすいのではないかと考えた。SNSが登場し始めたころに比べて今は会員制という感じもないし、アプリなどでもやりとりをするから「ネット上でやりとりするためのツール」みたいな感じを出したらどうか――。それで考えた案の一つが「ネット交流サービス」という説明で、今回の赤本のIT関連用語の項目に採用されました。
――僕も最近は「SNS」の初出に説明を入れるとしたら「ネット交流サービス」と加えることが多いかもしれません。
◆初校の人が「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」と入れてきたのを取ることはしないけど、自分が初校するときには説明を入れないこともあります。あとは原稿の長さにもよるけどね。ニュースサイトのみに掲載する原稿なら字数制限がないから入れていてもいいかと思ったり、発言部分などSNSという言葉自体に重きを置いていないならわざわざ文字数をとらせるのもどうかと思ったり。スマホも数年前は初出に「スマートフォン(多機能携帯電話)」と補っていたのが、あるときから「(多機能携帯電話)」を入れなくなりました。今でも初出こそ「スマートフォン」と略さずに書くけれど。SNSもさすがに定着してきていると思うけど、どうだろうね……。
――カタカナ語に関しては、「そのもの」として受け入れるしかない面もあるかもしれないですよね。
――最近はウェブにしか載らない記事の校閲をすることが以前より増えた気がします。その一方で、ウェブにも紙面にも載せるという記事もあります。そこで個人的に思っているのが、ウェブで読まれる原稿について紙面と同じルールを適用するのがふさわしいのかどうかということなんです。具体例を挙げると、新聞上だと西暦表記は初出で4桁(例=1989年、2018年)、それ以降は2桁(例=80年、96~02年)が基本ルールです。それは字数を減らすための方策でもあるわけですよね。一方でウェブは、読者の端末の画面に一度に表示される文字数には限りがあるけれど全体の字数の制限はない。そのことを考慮すると、すべて4桁にしておいたほうが読者に親切ではないかと思っていて。
◆紙面で「初出4桁、それ以降2桁」なのは、縦書きだからということもあるんだよね。数字4個を縦に並べるより、2個を横に並べて活字1文字分としたほうが読みやすいからね。でも確かに、横書きで読むなら4桁でも2桁でも変わった感じはしないから、全部4桁でもいいのかもしれない。けれども、今のところは紙面でも使える素材ということに加えて「新聞社が作っているコンテンツ」ということを考えて、ウェブ用とされていても基本は紙面前提のルールにのっとって校閲しています。
それとさっきの「SNS問題」だけど、ウェブなら字数制限がないから「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」と入れると言ったけど、実はウェブで読む人ほどSNSをわざわざ説明する必要がないかもしれない。あるいは「経済プレミア」の記事を読む人の多くはもともと経済に関心があるだろうから、改まって経済用語の説明を加える必要はないのかもしれない。でもその想定が合っているかは分からないし「この場合はこれ、この場合はこれ」ってしてしまうとルールがいっぱいできてしまって、校閲するのも大変になってしまう。ある程度「新聞社としてのルール」ということで統一してしまうほうが校閲しやすいともいえる。とはいえ、これからもっとウェブがメインになっていったときには、むしろウェブで読むことを前提にルールを考えていかなくてはならないかもしれないね。
(おわり)