今回の「国語辞典ナイト」は、今年初めに刊行された「三省堂国語辞典 第8版」を「被告」とした裁判形式で進められました。……と文字にすると穏やかではないですが、昨年11月の国語辞典ナイトで出た「8版が出たらそれぞれチェックして、またイベントを開きましょう!」という言葉通り、三省堂国語辞典(三国)をメインにした回でした。レギュラーメンバーの登壇者3人から寄せられた議題をそれぞれ取り上げます。
目次
おせっかい?「豆知識」
国語辞典マニアの稲川智樹さんは三国第8版で新たに導入された「豆知識」(!マーク)を取り上げました。三省堂のサイトにある三国の紹介ページでは「SNS時代のフェイク(怪しい誤用説、ウソ語源、謎マナー)に惑わされないための、正確で心強いガイド」と紹介されているこの「豆知識」ですが、本当に必要なのか?という疑問が呈されました。その一つが「あいする(愛する)」の項にある記述です。語釈②「恋を感じた相手を、自分にとって特別で、大切な人だと思う」のあとに、次のように続きます。
(!)「I love you」を「君を愛する」と訳した生徒に、教師が「日本人はそう〔=直接的に〕は言わない。『月がきれいですね』と訳しなさい」と言ったという話がある。これを夏目漱石の発言とする人がいるが、実は1970年代にあらわれた話。
夏目漱石が言ったとされているが実はそうではない、ということは知っていたものの、どの時期に出た話かというところまでは知らなかったな……と素直に受け止めてしまいましたが、稲川さんから「これ、『愛する』と関係ありますか?」と鋭い指摘が。
三国の編集委員である飯間浩明さんは「関係ないといえば関係ない」と認めながら、この夏目漱石説に行き着くきっかけは「愛する」という表現だろうと考え、辞書を引いてもらうことでこの説が誤りだと知ってほしいという意図があったと話しました。
また、三省堂辞書出版部の奥川健太郎さんが「第7版であえて『銀ぶら』を書いた」(※)ことを例に挙げ、言葉について間違った説が広がっている時に注意を促すためでもあると説明。三国は語源を含め、事実と異なることには厳しい立場をとっているのが特徴だそうです。
(※三国は第7版から「銀ぶら」の項で「『もと、銀座でブラジルコーヒーを飲むことだった』という説は誤り」と明記している)
ユニークだと思ったのは「いい意味で」の項にある豆知識です。
・いい意味で
ふつうはけなすときに使うことばを、ほめて使っている、とことわる言い方。「いい意味で期待を裏切られた」
(!)「いい意味で」をつけても悪口にしかならないこともある。「あの人はいい意味で口うるさい」と言うよりも、「あの人はめんどう見がいい」と言ったほうが、うまく伝わる。
「いい意味で」という話し言葉の項目があること自体もおもしろいのですが、これに対して稲川さんは「めんどう見がいい辞書」とコメントし、会場の笑いを誘っていました。言葉の持つニュアンスまで説明しようとする三国は、いい意味でおせっかいな辞書なのかもしれません。豆知識の部分には「現代語に強いことが特長」という自負が表れているのだと思いました。
「漢字の使い分け」細かすぎる?
国語辞典マニアの見坊行徳さんは三国の「漢字の書き分けに詳しい」点に着目しました。「すみか(「住み処」などの表記)」や「すすぐ(雪/漱/濯)」を例に挙げ、他の辞書では同じ項目にまとめられているような語でも、三国では別々に項目が立てられ、それぞれ語釈が付いているといいます。書き分けに詳しいということは書き分けにうるさい、つまり「三国は非標準の表記を認めない」のか?という疑問が投げかけられました。
これに対し奥川さんは、文化審議会の「『異字同訓』の漢字の使い分け例」を引き合いに出しました。こちらで確認できた2014年の「使い分け例」では前書きに「ここに示す使い分け例は一つの参考として提示するものである。したがってここに示した使い分けとは異なる使い分けを否定する趣旨で示すものではない」と明記されています。一つの表記が絶対ではないという見解を三国も踏襲していると考えてもらってよいと答えました。
加えて飯間さんは、自分が文章を書く上で、形を統一したい場合にどうすればよいかと考えた時に、ルールを決めておけば迷わないで済むという書き手側の意見も主張しました。
出版社で校閲業務に携わる稲川さんは、筆者の表記を尊重するため同訓異字の表記については指摘しない(直さない)と話していましたが、新聞では漢字の書き分けについて用語集にまとめており、校閲記者はそれに基づいて直しを入れることがあります。
現実と違う?図解イラスト
インターネットメディア「デイリーポータルZ」のライター、西村まさゆきさんは三国第8版で用いられているイラストを網羅的にチェックし、分析しました。新たに追加されたというもののうち、「見たことがない!」として「アスキーアート」の項にある絵を紹介しました。確かに、初めて見るデザインです。西村さんがなぜこれを追加したのか?と聞いたところ、飯間さんが「これはわたしが作りました」と発言。ネット上で使われているものは権利の問題があるため自作したそうです。
また、イラストに関連して、三国の7版と8版で大きく変わった絵として農業用機械の「コンバイン」が挙げられました。パーツごとに実在のものを参考にしつつ、全体を見た時に特定のメーカーの商品と似たものにならないような形にした――という制作秘話も。言われるまで気づかなかったのですが、機械の側面にはメーカー名を模した「Sansei」の文字が入っています。遊び心のあるデザインがすてきです。
イベントの後で、岩波書店の方から「広辞苑」のオート三輪も合成イメージで描かれているという話も聞き、イラスト一つとっても辞書特有の苦労があることを知りました。これから紙の辞書を引いた時、目に入ったイラストが気になってしまいそうです。
このほか、意外な切り口の指摘もありました。ジャンル別に数え上げた西村さんによると、農業関係のイラストが5個であるのに対し、漁業関係のイラストは11個と差がある。「漁具が多すぎるのではないか?」というのです。
飯間さんは「今回初めて知りました」。また奥川さんは「確証はないが、わたしの前の(編集)担当者が、釣りが好きで……」と切り出すと会場からどよめきが起こりました。
飯間さんからは、漁法の説明である「そこびきあみ」「ながしあみ」「はえなわ」の絵について、言葉だけでは伝えるのが難しく、かつ写真では再現できない形になっているとの解説がありました。図解にも工夫があふれていることがよくわかります。
イベントの最後、奥川さんは三国について「新語・俗語辞典のイメージを払拭(ふっしょく)し、本格的な日本語辞典でありたい」という展望を話していました。そうした熱い思いを持ちながら辞書を編んでいる人がいることに思いをはせつつ、新しくなった三国を手に取ってみてはいかがでしょうか。
【谷井美月】