繰り返しではない行為に「また」を付けることをどう感じるか伺いました。
目次
「また」は不要と考える人が6割占める
一度は離れた古巣に「また帰ってきました」――気になる部分があるのですが……。 |
「また」が余計 60.7% |
「また」はあってもなくてもよい 32.7% |
「また」はある方がよい 6.6% |
帰ってきたのが1度目なら「また」は余計だと考える人が6割を占めました。重複感があると見る人が多いのでしょう。一方で「あってもなくてもよい」という人も3分の1程度おり、「また」にあまり意味を持たせない用法がある程度認められているとも感じます。
書き起こし記事の「また帰ってきた」
「また帰ってきました」――プロ野球・楽天の田中将大投手が古巣復帰の記者会見で口にした言葉として、毎日新聞の東京紙面では見出しにも取られました。既に亡い野村克也さんや星野仙一さんに復帰をどう報告するか、と問われた際の返答です。
この見出しに「楽天に帰ってきたのは1度目なのに『また帰ってきた』というのもどうなのかな」と思ったのでしたが、考えてみると「また戻る」「また取り返す」のような言い方は比較的よく目にするようです。これらの用法は「戻る」という行為は1度目でも、「元の場所にいる」「手元に保持する」という状態が再現されるという意味で「また」を使っているのではないかと考えます。
飛田良文・浅田秀子著「現代副詞用法辞典」(東京堂出版、1994年)は「また」の項目で、反復の用法について「同じ動作や状態を複数回繰り返す様子を表す」と言います(例文は「巨人は桑田でまた負けた」)。もっとも、「状態」というのは「今日もまた暖かい」のような形容詞などにかかる場合を想定した説明と思われ、上のような「また」の捉え方は載っていません。考え方として、ちょっと勇み足なのでしょうか。
一方で、関西では一度も遊んだことのない相手に向かっても「また遊ぼうね」のような使い方をするとも聞きました。これは「また(の機会に)遊ぼうね」といった感じで、言葉が省略されているように思えますが、こうした用法が広がるなら「また」の反復としての意味は薄れてゆくことになるかもしれません。
文章表現としては不自然さも
今回の質問を作るに当たって、田中投手の会見を動画サイトで見てみたのですが、「また」と「帰ってきました」の間に実際は若干の間があり、もしかすると「また帰ってきました」と言うつもりではなかったのかもしれない、とも感じました。「また」と言ってから言葉を選び直して「帰ってきました」と言っただけであり、それを一続きのフレーズとして受け止めたのはあまり適切でないのではないか、ということです。会見などの文字起こしではありがちなことですが、ある程度の発言の整理はした方がよかったのかもしれません。
今回の質問のきっかけについては、煮え切らない話になりましたが、「また帰ってきた」という言い回しは文字にするとやはり重複感が強いようです。文章として書く場合には不自然に見えるフレーズである、と意識する必要はありそうです。
(2021年02月23日)
「また帰ってきた」のような言い回しには釈然としないところがあります。何度も行ったり来たりを繰り返しているわけでもなく、ひとたび行って帰ってきたという場合にも使われる、この「また」は何なのかということです。意味としては「再び。もう一度。更に」(岩波国語辞典8版)というところなのですが。
もっとも、「再び帰る」「再び取り戻す」のような形もよく見ます。こうした「再び」も大抵の場合は「帰る/取り戻す」といった行為の反復を意味してはいません。おそらくは「ある場所にいる/手元に保持する」といった状態が繰り返されるという、結果を指して使われているのでしょう。
米大リーグからプロ野球・楽天に復帰した田中将大投手の記者会見の書き起こしで「また帰ってきました」という言葉が見られましたが、この「また」もそうしたものと考えれば特におかしさはないかもしれません(もっとも、会見の口頭で発せられた言葉であり、「また」にさほどの意味はないのかも)。皆さんはどう感じるでしょう。
(2021年02月04日)