おかげさまで拙著「毎日新聞・校閲グループのミスがなくなるすごい文章術」は好評をいただいております。今回はこの本で使った辞書について紹介しましょう。
昨今辞書が売れないという話をよく聞きます。実際に、ある政令指定都市の駅ビル内の本屋さんで「辞書はどこですか」と聞くと「ありません」と言われ、ぼうぜんとしたことが数年前にありました。とはいうものの、やはりいちばん売れるのは新年度だと思います。
ということで、拙著の題の一部「すごい」について、辞書を数冊引いてみます。
広辞苑(第6版)
すごい【凄い】《形》文 すご・し(ク)①寒く冷たく骨身にこたえるように感じられる。源槿「池の氷もえもいはれず―・きに、童べおろして雪まろばしせさせ給ふ」②ぞっとするほど恐ろしい。気味が悪い。源帚木「心一つに思ひ余る時は、言はむ方無く―・き言の葉、哀れなる歌を詠みおき、忍ばるべき形見を留めて」。「―・い文句でおどす」「―・い目つき」③ぞっとするほど物さびしい。荒涼として身もすくむような感じである。源若紫「深き里は、人離れ心―・く若き妻子の思ひわびぬべきにより」。「―・いあばらやだ」④形容しがたいほどすばらしい。宇津保楼上下「横笛を声の出づる限り吹き給ふ。…あはれに―・うこれもよになく聞ゆ」⑤程度が並々でない。「―・い勉強家だ」「―・く速く走る」
古典の用例が「源氏物語」にいやに偏っているという印象をまず持ちましたが、これは同じ源氏の用例でも既に意味がこれだけ広がっていることを示すためなのかもしれません。それはともかく、【凄い】の漢字部分に常用漢字表にあるかどうかを表す印を付けないのは辞書では少数派です。常用漢字かどうかの確認の役には立たない辞書といえます。凄は2010年に追加された常用漢字ではありますが、セイの音読みだけなので、例えば新明解国語辞典は次のように《を記しています。
新明解国語辞典(第7版)
すご・い【《凄い】(形)心の底から恐ろしいと感じさせる様子だ。「―雷鳴がとどろく/―目でにらまれる」全く予測できなかった事態に遭遇して、ひどく驚く様子だ。「朝夕は―渋滞が起きる道路/台風が接近して海がすごく荒れる/―人気」派―さ
→すごくすごく【《凄く】(副)「とても・非常に」など、程度がはなはだしい様子を表わす意の口頭語的表現。〔若い世代に好んで用いられる。また、「すごくきれい」を「すごいきれい」などと、「すごい」を副詞的に用いることがある。強調表現は「すっごく」〕「―暑かった/―おこられた/―おもしろい」
おや、通称「新解さん」は「すごいきれい」を認めてしまっているのですね。こういう俗用は同じ三省堂から出ている「三省堂国語辞典」にまかせていると思っていましたが。では通称「三国」はどうなっているかというと――。
三省堂国語辞典(第7版)
すご・い【(▽凄い)】(形)①おそろしくて、ぞっとするような感じだ。「―うなり声・―ような吹雪(フブキ)の夜」②力や程度がはなはだしい。おどろくほどだ。「―チーム・―人気だ・すごくできる」〔連用形で「すごく」と言うべきところを、俗に「すごい」と言うことがある。「―速い・―びびってる」▽〔俗に強めて「すっごい」「すんごい」「すっげえ」「すんげえ」とも〕派生凄さ
さすがに、これでもかこれでもかと俗語を挙げていますね。別の部分には「すごうま(=とてもおいしい)」という用例も採録されています。まるで俗語辞典ですが、この辞書の性格を如実に示しているともいえます。
これとは正反対に、一般的に若者言葉に厳しいじいさんというイメージのあるのが「岩波国語辞典」ですが……。
岩波国語辞典(第7版新版)
すご・い【△凄い】《形》①ぞっとするほど恐ろしい。「―ことになった」「―目つきでにらむ」「―ような美人」②(ぞっとして)恐ろしくなるほどすぐれている。転じて、程度がはなはだしい。「―売行き」「―けちだ」「けさは―・く寒い」▽(2)の転義の俗用ながら口頭語では「けさは―・い寒い」など連体形を使うのが普通になった。派生―さ ―み
なんと、「岩国じいさん」も「すごい寒い」が「普通になった」ですと? 「バカモーン、『すごく寒い』だ!」と喝をくらわしてくれると思っていたのに、これに関しては物分かりのいいおじさんに……。
では、辞書としては後発ながら「問題なことば索引」という別冊まで作って言葉の是非を鮮明にする「明鏡国語辞典」(大修館書店)は?
明鏡国語辞典(第2版)
すご・い【▽凄い】《形》①物事の程度が甚だしく尋常でないさま。ものすごい。「今日は人出が―」「―拍手がわき起こる」「―・く大きな家」語法話し言葉では、「すごい」を「すごく」と同じように連用修飾に使うことがある。「―悔しい」「お母さん、―怒ってたよ」②感嘆に値するほどすばらしい。「優勝とは、それは―な」③身震いするほど、怖ろしいさま。すさまじい。「―剣幕で怒鳴る」「猛獣の―声」◆古くは③の意。のち②、①と用法を広げた。表現程度の高さについては、プラスにもマイナスにも評価する。「すごい暮らしぶり」は、極端に富裕の意にも貧窮の意にもなるなど。派生―さ/―み
「話し言葉では……使うことがある」と控えめながら、ここでも「すごい悔しい」を認めています。まあ現実の用法の「鏡」としてはやむを得ない記述でしょう。
では、「すごい」の俗用に異を唱えるような、規範性を重視した辞書はないものでしょうか。失礼ながらあまり注目していなかった「新選国語辞典」(小学館)にはこうありました。
新選国語辞典(第9版)
すご・い[▲凄い]一形 カロ、カツ・ク、イ、イ、ケレ、○①おそろしい。気味がわるい。「―顔つき」②ぞっとするほどすばらしい。「―美女」③はなはだしい。ひどい。「―大雨」参考 用言につづくときは「すごく大きい」のようにいうのがふつう。話しことばでは、「すごい大きい」「すごいきれいだ」のようにいうこともあるが、一般的ではない。すごさ名 すご・し文語ク 二形ク 〔古語〕①もの寂しい。「日の入りぎはの、いとすごく霧(き)りわたりたるに」〈更科〉②おそろしいほど、すぐれている。「(空ノ気色ガ)艶(えん)にもすごくも見ゆるなりけり」〈源氏〉
「一般的ではない」といっている辞書に初めて出合いました。その他、活用を示しているのも、ここで挙げた他の辞書にない特長です。
こうして引き比べると、「すごい違い」ではありませんか。辞書はどれも似たようなものだという思い込みがいかに間違っているかが分かりますね。
さて、以上の辞書で「すごい大きい」などの用法を記述しているものも、「俗用」「口頭」「話し言葉」などという留保を付けていることを見のがしてはなりません。書き言葉としてはやはり間違いといっていいのではないでしょうか。
そこで拙著でははっきり「すごい多い」は「間違い」と断定しています。当たり前のことではありますが、辞書が踏み込んで「駄目なものは駄目」といってくれていないので、あえて頑固じじいみたいにしてみました。
ただし、全般的には拙著では頑固に旧来の使い方を墨守しているだけではなく、もう用法が変わったと判断した使い方については、自分で理由を突き詰めて考えた上で容認しています。そのうえで、タイトルの「すごい」に込めた願いを「おわりに」で述べました。
どんな願いか、現物で確かめていただければ幸いです。
【岩佐義樹】