「銀座、新宿、渋谷方面へは行かれません」という看板の「行かれません」に違和感があるか伺いました。
目次
「違和感あり」が8割占める
この写真の「行かれません」、いかがでしょう? |
違和感がある 79.2% |
違和感はない 20.8% |
違和感があるという人が8割で大半を占めました。違和感がない人が2割というのは予想より多かったのですが、基本的には「行けません」の方が良さそうです。
現在は可能動詞「行ける」が普及
回答時の解説をおさらいすると、「行く」の未然形+可能の助動詞「れる」で「行かれる」ですから、「行かれません」は誤りではありません。しかし現在では「行ける」という可能動詞を使って「行けません」とするのが普通です。
「日本語大事典」(朝倉書店)によると、「可能動詞が助動詞レル形を凌駕(りょうが)して一般化するのはようやく江戸時代後期のこと」。助動詞を使った可能表現の方が圧倒的に古いのですが、可能動詞もかなりの歴史があります。
日本語学者の加藤重広氏は、この可能動詞の存在は合理的なものだといいます。助動詞「れる」には可能・尊敬・受け身・自発の四つの用法がありますが、「自発はほとんど使わず、尊敬も他に比べると頻度は低い。可能と受け身が用法の多くを占めているから、『可能』と『それ以外(主に受け身)』に分けるのは、業務効率化の方策としては適切である」(「日本人も悩む日本語」朝日新書)。
可能動詞を使うことで、助動詞「れる」の意味を判別する苦労を読者にかけずにすむわけです。「先生は明日、会合には行かれません」とあれば、可能か尊敬か分かりませんが、「行けません」なら一目瞭然。この意味でも「行かれません」を「行けません」に直すメリットはあるでしょう。
「ら抜き」も可能動詞?
ところでこの可能動詞の元は、五段活用の動詞です。上一段活用の「起きる」、下一段活用の「教える」などからは可能動詞が作れません――と思っていたのですが、「日本語大事典」によると「広い意味では、近年、一段動詞を五段動詞と同じように活用させて使用される『見れる』や『起きれる』(中略)などのいわゆるラ抜きことばも可能動詞と呼んでよい」。
これは困りました。現在新聞では「ら抜き」を許容していません。しかし「ら抜き」も読者には意味が判別しやすくなり「言語学的に合理的な変化」(「日本人も悩む日本語」)なのです。それなりに歴史もあり、「静岡などでは遅くとも明治のなかごろから、東京では昭和初期ごろからラ抜きことばが盛んに使用されるようになり、現在に至っている」(「日本語学大辞典」東京堂出版)。可能動詞を積極的に使いながら「ら抜き」を排除するのは一貫性がないのでは……。
当面は「行かれません」も「あり」で
ひとまずは「システムに科学的な合理性があったとしても、これまでの慣習から逸脱していると感じられると品位がないと思われる」(「日本人も悩む日本語」)ことを、「ら抜き」を避ける根拠にはできるでしょう。逆に言えば、「ら抜き」の方が合理的で可能を表すのに「ら」は要らない、という考え方が浸透すれば「ら抜き」は新聞でも許容されるはずです。
その際には、「ら抜き」は可能動詞であり、「られる」を「れる」にしてしまう誤りではない、と説明されるかもしれません。そうして助動詞「れる」「られる」から「可能」の意味が消える日が来る可能性もあります。
少なくとも事態がそこまで進行するまでは、2割の方が違和感なく受け取った「行かれません」などをむげにすることは慎もう、とも思う結果となりました。
(2019年10月04日)
毎日新聞社のそばに立つ、高速道路入り口の案内。「ん?」と思う方もいるのではないでしょうか。
文法的におかしいわけではありません。「行かれ」の部分は、「行か」(「行く」の未然形)+「れ」(可能の助動詞「れる」の連用形)という形で成り立っています。今の子供がやっているのかはわかりませんが、「花いちもんめ」でも「鬼がいるから行かれない」と歌っていました。古くからある言い方です。
それでも普通は「行けません」と言う人が多いでしょう。「行く」が「行ける」、「読む」が「読める」、「走る」が「走れる」――といった変化で、その動作ができることを表す言葉を「可能動詞」といいます。三省堂国語辞典7版は助動詞「れる」の項目で「行かれるかもしれない」という用例を挙げながらも、「ふつうは、可能形を使って『行ける』『歩ける』などのように言う」と述べています。
アンケートで「違和感がある」という方が大多数なら、原稿に出てきた「行かれません」系の言葉をためらいなく可能動詞に直せるようになりますが、いかがでしょう。
(2019年09月16日)