硤合憲三さんのノーベル化学賞受賞決定の一報に接し、「硤合」という姓も「そあい」という読みも初めて見たという人は多いのではないでしょうか。広島の希少名の一つですが、どうしてこの字と読みになったのでしょう。

2026年10月8日毎日新聞1面と社会面より
「広島出身の私でも見たことない字です」
硤合憲三さんのノーベル化学賞受賞決定の一報に接し、同僚にそう伝えました。私は広島市で育ち、硤合さんの出身地である広島県府中町にも多少縁がありますが、この硤という字も「そあい」という読みも見聞きした記憶がありません。
目次
「硤合」は広島の希少名
すぐに「新潮日本語漢字辞典」を開きました。この辞書は漢和辞典なのですが、地名や日本人の希少・難読名も載っていて、しかも部首だけではなく50音順の熟語索引まであるので助かります。「そあい」で引いてみると――あった!
【硤合】そあい 姓氏の一つ。
そして「硤」の字の意味や使い方も示されています。この字は「谷間」の意で、「峡」と同じ意味のようです。中国の地名の一部に使われているそうですが、一般語としての熟語は挙げられず、「硤合」があるのみです。
また、「大修館現代漢和辞典」の付録には「都道府県別難読地名・姓氏十選」の一覧があるのですが、その広島県の中にも「硤合 そあい」がちゃんと入っています。しかし、この漢和辞典の本編には「硤」の字は見あたりません。
つまり「硤」という漢字は、日本では硤合という名字だけのために存在するといっても過言ではなさそうです。
ただ、新潮日本語漢字辞典が「硤」の読み方として示すのは「キョウ」「コウ」「ギョウ」と、それぞれの旧仮名のみ。「そ」はありません。固有名詞は時に突拍子もない読み方をさせるとはいえ、地名由来など何らかの訳があることは少なくありません。硤を「そ」と読ませるのにも理由があるのではないでしょうか。
広島に「そうわ」という地名
以下、個人としての硤合憲三さんとは関係なく、この字と姓について私なりに調べつつ考察していきましょう。
最初に思い浮かんだのは、「そ」を使う熟語に「阻害」「阻止」など「阻」があること。地形が険しい意味も有し、「険阻」という語もあります。そして府中町は坂が多く、川遊びスポットの水分(みくまり)峡や「石コロヒ」という地名が存在。昔はもっと険阻だったと想像されます。

もしかして「石偏」で「ソ」と読む字はないかと新潮日本語漢字辞典で探すと、「砠」で「ショ」「ソ」と読む漢字が出てきます。しかも広島県江田島市にこの字で「そうわ」と読む地名があるとのこと。おおっ、もしかして「そうわ」→「そうあ」→「そあい」となったとか?
しかし「砠」と「硤」では形が違いすぎます。地理的にも、同じ広島県とはいえ一方が島では、ちょっと実際の距離以上に関連付けに無理があるかも。この方面の追究はいったんやめにしました。
「いそあい」の「そ」が脱落?
後日、X(ツイッター)などで、広島県東区温品(ぬくしな)の中に「磯合(いそあい)」という地名があり、そこから「そあい」となったのではという説を見いだしました。地図を見ると温品と安芸郡府中町は隣町ではありませんか。
今の行政区画としてはこの地名はないようですが、「磯合町内会」という町内会としてはネットで確認できます。また「角川日本地名大辞典・広島県」の小字一覧には「磯合(イソアイ)」と出ています。
磯の「い」が脱落する例としては「磯馴(そな)れ松」などがあります。「磯馴れ」とは「波風の強い海岸でよく見られるように、樹木が一方に傾いて生育していること」(新潮日本語漢字辞典)。そもそもこの辞典では「磯」の訓読みが「いそ・そ」とあり、「そ」だけになるのも特殊ではないことを示唆しています。
地理的にも読みとしても符合する「いそあい」から「そあい」になったという可能性が高くなりました。しかし依然として立ちふさがるのは「硤」の字。「磯」のつくりと部分的には少し似たところもありますが、さすがに「磯」の略字で「硤」となったとするのは木に竹を接ぐ感を否めません。
つくりの「夾」が共通する「峽」「狹」などが「峡」「狭」と略して書かれるように「夾」自体がやや複雑ですし、「機」の手書きの略字が「木偏にキ」となるように(最近は見ませんが)、略すならもっと簡略化させそうな気がします。
硤は国字の一種なのでは
ところで、磯というと海岸のイメージがあるのですが、今の温品は海岸から近くはありません。しかし「角川日本地名大辞典」によると「古くは海辺の地」だったそうです。
江戸時代から続く広島の干拓で、往時の磯は見る影もなくなったのですね。もしかしたら、磯合の地で新たに姓を名乗った(あるいはその字を決める必要に迫られた)人は、こう思ったのではないでしょうか。海がない所なので磯の字は使いたくない、石が多くて狭い所なので「硤合」の字で「そあい」と読むことにしよう――と。
連想されるのは「礒」の字です。「磯」と同様「いそ」と読む姓に使われるので、形が違っても実質的に同じ字である「異体字」のように思う人もいるかもしれませんが、別の字です。音読みは「磯」がキなのに対し「礒」はギなのです。だからしっかり使い分けなければなりません。
「硤」の字を当てた人も、漢字の本来の読み方よりもイメージで書いたと考えられます。だとすると、正式な音読みはこのさい関係なく「硤」が選ばれたと考えられます。この字のもとは中国発生ですが、姓としての使い方は日本独自、つまり国字の一種といえるでしょう。
以上は想像の域を出ません。いずれにせよ、これまで一部にしか知られていなかった「硤」の字がクローズアップされ、この字をめぐる知見は専門家も含め深まるでしょう。私も及ばずながら、広島出身の者として調べていきたいと思います。
【岩佐義樹】
