「耒」という字を持つ人をご存じでしょうか。何と読むのでしょう。また「麹」「麴」の字はどちらが使われる? 漢字は「点と線」の付け方で形は違えど実質的に同じ字になったり、別の字になったりと変幻自在。ややこしい字体の実態をご紹介します。
前回は漢字に含まれる「、」の有無について「曙」と「賭」を例に見ました。そして今回は「点と線」という松本清張の名作とは関係ありませんが、線を点などの代わりに引く俗字、略字について、字体の実態調査に乗り出します。
目次
「耒」は意外に多く見られる姓
大河ドラマ「光る君へ」のオープニング映像でスタッフクレジットを見ていてハッとしました。
「タイトルバック映像 市耒健太郎」
調べると、この「市耒」は「いちき」と読む姓でした。
実は「耒」の字が仕事で最近問題になったばかりだったのです。別の人で、高校野球に「入耒田(いりきだ)」という選手が出てくるが、この「耒」を「来」にしていいだろうか?ということでした。過去には「入来田」で載ったこともあるということです。
毎日新聞データベースでは、この二つの姓のほか「加耒」「山耒」「午耒」「米耒」「耒海」「戸耒」「耒家」「耒代」「出耒」などなど、1年余り挙げるだけで実にさまざまな姓に使われていました。一般の人で読み方は分かりませんが「根耒」などから類推すると「来」との関連を推測できます。
法務省の「戸籍統一文字情報」で画数と「らい」の読みで検索すると、「耒」とは別にこれが出ます。
日本加除出版「新訂 人名用漢字と誤字俗字関係通達の解説」の表には、常用漢字表のラ行に「来」との関係が示されています。
この▲は俗字を示していますが、上の字に申し出があれば戸籍の文字を直せるとされています。逆にいえば申し出がない場合は▲の字が正式な戸籍となっている可能性が大ということです。
「耒」と「来」の俗字との衝突
一方「耒」を漢和辞典で調べると、これは部首になっているのでその1番目が【耒】です。音読みがライ、訓読みは「すき」。意味は
すき。手や足で土中に押し込み、手の力で土を反転させて耕す道具。また、その湾曲した木製の柄(え)。(新潮日本語漢字辞典)
などとあります。一般的な国語辞典では「鋤」という字になっていますが、「すき」とパソコンで打つとちゃんと「耒」も出ますので特殊な字というわけではありません。そして同辞典では「参考」欄に
は「別字」と注記しています。
「来」の点などが横線になるのと似た流れには「諫」(カン、いさめる)と「諌」などいくつもあり、俗字とはいえ不自然ではありません。それとは別に「耕」など当用漢字の字体として、偏が旧字の「耒」ではなく
の形が採用されたため、「来」の俗字の字と「衝突」してしまいました。困った事態です。
もし「耒」の字が戸籍として登録されているのならその字を用いるのが正しい字といえます。しかし、もし「来」の俗字と分かって上記「▲」の字を本人が使用しているのだとすると? ウェブ上ではその表示が難しいので、新聞などのメディアとしては
・字が酷似し、音読みも共通する「耒」を代用として使う
・標準字体として「来」に直して用いる
の選択になってしまいます。本人にいちいち確認しなければなりませんが、現実的には難しいケースも多いでしょう。その結果、同じ姓でもメディア(あるいは同じ媒体でも書き手の判断など)によって表記が分かれてしまうという可能性があります。前述の高校野球の選手の場合も総合的な判断で「来」とせず「耒」としましたが、結果的に過去の記事と割れてしまいました。
難しい「麴」、表示されていますか?
さて、「来」の字は以前は「來」が正式だったのですが、この字は何を表した字だったのでしょう。
本来は“むぎの穂”の絵だと考えられている。大昔の中国語では“くる”ことを意味することばと発音が似ていたため、当て字的に用いられるようになった。その結果、“むぎ”を表す漢字として改めて作られたのが「麦/麥」である。(円満字二郎著「漢字ときあかし辞典」)
とのことです。
ここで挙げられる「麦/麥」と相似形をなすのが「麹/麴」です。
ご承知の通り、紅こうじを使用するサプリメントの回収でにわかにクロースアップされました。回収対象の一つが「紅麹コレステヘルプ」。商品の写真がさんざん新聞やテレビなどで登場したため、この字体を見慣れている人も多いでしょうが、これは「麥」を部首にした「麴」の略字です。
だから、国語辞典で「こうじ」を引くとほとんどは難しい「麴」の字しか載せていないようです(日本製の漢字「糀」は載せる辞書もありますが)。漢和辞典では部首「麥」の【麴】の後に「別体」などとして略字「麹」が記されています。
毎日新聞でも難しい「麴」を正式な文字として使用しています。ただ、商品名まで難しい字にする判断には至らず、一般語としては「紅こうじ」、商品としては「紅麹」などと使い分けています。
ちょっと心配なのは、難しい「麴」が「機種依存文字」とされていることです。つまり電子機器によっては、難しい「麴」が正確に表示されない恐れがあるのです。ひところに比べ文字化けする事態はかなり減ったと思いますが、それでも一般的に「麹」が多用されていることが今回のサプリ問題で示されました。
東京・麴町で見た字体の実態
ところで、東京都千代田区に「麴町」という地名があり、地下鉄(東京メトロ)の駅もあります。いま町の「こうじ」の字体はどうなっているかウオッチングに行きました。
まずは有楽町線の駅名。難しい「麴町」が掲示されています。
ところがホーム内にはこんなのが。略字の「麹」を削った跡のようです。誰かから指摘があって削ったけれど一部残ったのでしょうか。
改札を出て住居表示板を探すと、やっぱり難しい「麴」が。
町の由来を示す看板も同様です――と思いきや、脇に略字の「麹」も。あえて使い分ける理由が見いだせず、間違いの可能性があります。再現されている古地図では難しい方です。
町のビル名などは簡単な「麹」が圧倒的に多いように見受けられました。
通りの名称にはこんなのも。
しかしその学校の前には
と、難しい「麴」が。略字をデザインした校章も見えますが難しい方が正式のようです。
今回の町歩きの範囲は狭かったのですが、だいたい傾向はつかめたように思いました。2024年現在、公共的な施設などでは難しい「麴」で、民間では略字の「麹」が多いようです。
一般的な日本人にとってはどちらでもよいことかもしれません。しかし日本語に慣れない外国人にとって、同じ物事の字が違うことによる混乱は必至です。日本に住む外国人が増えている昨今、文字環境を整える必要性が増しているのではないでしょうか。そして手書きが中心だったころに比べると、印刷文字の統一はやればできる状況のような気もします。
とはいえ、今回の二つの例を見るだけでもやはり、統一字体をどれにするかという「線引き」はとても難しいなと感じました。
【岩佐義樹】