朝ドラの「風、薫る」はいよいよ主人公の2人が「トレインドナース」への道を歩み始めます。ところでモチーフになったという大関和という女性、「ちか」とはなかなか読めませんね。明治時代の名前事情とともに、「ちか=和」の関連を調べました。

「大関和――看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール」(青山誠著、角川文庫)
NHK連続テレビ小説「風、薫る」は明治が舞台です。小泉八雲の本を読む幸福な読書体験のきっかけを与えてくれた「ばけばけ」に続き、これもいろいろ勉強になりそうなドラマです。
ヒロインの一人は「一ノ瀬りん」。このモチーフになったのは「明治のナイチンゲール」とも「日本のナイチンゲール」ともいわれる「大関和(ちか)」です。今回のコラムはこの名前について書いてみます。
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同一人物に多様な表記
「ばけばけ」のヒロインのモデルも「小泉セツ」「小泉節子」と二つの表記があり、本人は「節子」を好んでいたと伝わりますが、大関和も実にさまざまな表記があることが分かります。「關」は新字体で統一するとしても――
大関ちか
大関チカ
大関ちか子
大関和子
大関千賀子
大関知加
などが確認できます。たとえば1932年5月25日の東京日日新聞(現在の毎日新聞)での訃報は「大関ちか」となっています。国会図書館デジタルコレクションで見られる著書「実地看護法」(1908=明治41年)の表題部には「大関和著」とありますが、同じ本の前文の末尾には「大関ちか子」。「派出看護婦心得」は表題部「大関和」、奥付は「大関チカ」となっています。中には別人か誤字ではと面くらうような字も。どうしてこんなにいろいろあるのでしょう。

国会図書館デジタルコレクションより
「大関和――看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール」(青山誠著、角川文庫)によると、彼女は栃木県から「上京してからは、カタカナの『チカ』から漢字の『和(ちか)』に名前を改めることにした」そうです。
それがいつのことなのか、詳しい年次は書いていないのですが、1890(明治23)年発行の「婦人矯風雑誌」の画像には「大関千賀」「外科看病婦取締 大関和」「外科看病婦取締 大関知加」とあります。このころは「ちか」ではないものの、まだ「和」の字が確定していなかったようです。
「ちか」というのはちょっと現代っぽい感じの名前ですが、江戸時代には珍しくありませんでした。大関和は1858(安政5)年の生まれですが、たとえば幕末の薩摩藩士、小松帯刀の妻が「近(ちか)」という名のようです。ウィキペディア情報ですが「名は千賀ともいう」。「ちか」という呼び名だけが正しくて、漢字は明確な史料がなく後付けなのでしょう。
そもそも明治時代の人名、特に女性は、同一の人名でもかなり揺れがあったようです。「子」をつけるのも、本名とは関係ない一種の流行、あるいは「敬称」のようなものとして用いられたのです。尾脇秀和さんのちくま新書「女の氏名誕生」に詳しく書かれています。
朝ドラでの字幕の名字変更は現代風?
ところで「風、薫る」は展開が早く、第7回で一ノ瀬りんは結婚します。その日のテーマ曲はなかなか流れなかったのですが、中ほどで結婚式を終えると始まりました。役名の字幕がそれまでの「一ノ瀬りん」が「奥田りん」に変わっていました。そして離婚した回で「一ノ瀬りん」に戻りました。
しかし、明治中ごろまでの日本では、女性の氏名は結婚と同時にかちっと変わるものではなかったことが「女の氏名誕生」に詳しく論証されています。そもそも女性が社会に進出していない時代には何々家の「嫁」、または誰それの「母」という属性があれば十分とされ、「女性名に苗字が付かなかった」(同書)。
大関和が結婚したのは1876(明治9)年ですが、実はその同じ年に出た政府の指令では、妻は結婚しても「所生ノ氏」(実家の名字)を使うと定められていたのです。一家同姓の原則を定めた民法の施行は98(明治31)年であり、お触れに従ったとすると結婚後も大関姓のままだったということになります。
もちろん、ドラマは大関和をモチーフの一人としたフィクションなので、現代の一般的な傾向に従った氏名表記にしても目くじらを立てるのはお門違いでしょう。ただ、知らず知らずのうちに「女性は結婚すると夫の氏になるのが昔からの日本の伝統」という誤った認識を広げてしまうという恐れは、NHKスタッフにあったのでしょうか。
漢和辞典の「名乗り」欄に「和=ちか」
それにしても「和」と書いて「ちか」と読むなんて、何と読むのか分からないキラキラネームばやりの今でも相当読みにくいのではないでしょうか。

毎日ムック「大関和がわかる」。表紙イラストも担当する、とんだばやしロンゲさんの漫画「チカたん」は笑えます
どうしてこの読みが――というより、「ちか」にどうして「和」の字が当てられたのでしょう。と問い直したのは、もとは「チカ」という仮名で漢字は後付けとされるからです。
大関和の出身地に名前の由来を問い合わせましたが、聞き方が悪かったのか史料がないのか、由来に関する情報は得られませんでした。そこで、自分で探した材料から素人なりに推測してみました。
今出ている辞典の話になりますが、日本国語大辞典で「ちか(い)」を表す多様な漢字表記の中に「和」はありません。では漢和辞典で「和」を引くと、「ちか」という読みを人名の「名乗り」欄などに入れているものが数種あります。ただし全ての漢和辞典ではなく、載せていないものも複数あります。
この「名乗り」欄を普段利用している人は少ないと思いますが、おそらく新生児の名前を受け付ける役所では多用されているのではないでしょうか。特に2025年5月以降、氏名に振り仮名を付けて届け、それが戸籍に登録されることになりました。「氏名として用いられる文字の読み方として一般に認められているものでなければならない」との規定があるので、担当者は「一般」の手引きとして確認する機会が増えていると推察されます。
例えば今「和」の字で「ちか」の振り仮名の子供を出生届に書いて出すとします。そんな読みがあるのかと手近の漢和辞典を引くと、ないけれど、別の漢和辞典には載っているのを確認して受理する、ということがあるかもしれません。
でも、辞書によって採否が異なる「名乗り」欄って何を基に決められているのでしょうか。出版社の漢和辞典編集者の経験があり、本サイトでもおなじみ、円満字二郎さんにうかがいました。
東京堂出版から出ていた『名乗辞典』(荒木良造編、1959年)という辞典が、名乗りをかなりたくさん集めています。漢和辞典の「名乗り」の項目の原稿を作る際にも、これを参考にしたものでした。ただ、最近では、新生児の名付けの辞典の類いの本がいろいろ出ているので、現代的な名乗りについてはそちらの方が情報は豊富です。
誤植を下敷きにした?
ということで「名乗辞典」を図書館で見つけ、「和」の読みを調べました。「和」にはよくある「カズ」をはじめ、23もの読みが示され「チカ」もその一つです。
実在の人物名も挙げられており、「チカ」の実例として挙げられるのは「壺井義和(ヨシチカ)」となっています。で、これがどういう人か調べると……江戸時代の有職故実の研究者だそうですが、実はどの資料に当たっても「壺井義知」となっているではありませんか。「和」ではなく。読みについては「よしとも」を併記するものもありますが、「義知」を掲げて「『義和』とも」などと書く事典も辞典も見あたりません。
ということは、「名乗辞典」の記載は誤りでしょう。「和」と「知」の字はよく似ているため、今でもよく取り違えられます(サッカーの三浦知良選手が「和良」になるなど)。ましてや当時は手書きの時代。原稿の書き間違いの可能性もありますが、誤植つまり印刷の際のミスという可能性の方が大きいという気がします。そういえば「風、薫る」の原案の本(初めに掲げてある角川文庫とは別です)でも、ある有名な人名の誤字を見つけてしまいました。人のことはいえませんが、なかなか校正ミスは尽きませんねえ……。
それはともかく、漢和辞典の「名乗り」欄のベースになったのが「名乗辞典」だとすると、その間違いに気づかず「ちか」が掲げられてしまったのでは?
いやいや、「名乗辞典」には入っていませんが、それこそ大関和という立派な例があるではありませんか。
「和睦」「和親」を媒介に「和=ちか」となった?
同じ東京堂出版から2009年に出た「人名の漢字語源辞典」(加納喜光著)には「和」に「ちか」の読みが入っています。これも実例が掲げられ、その中の一つが「大関和(チカ)」です。
一般論的に、どうして「和」が「ちか」になるのかの説明も添えてあります。
「ちか(親)」は睦の訓がある。また親和の意味から。
これだけでは分かりにくいのですが、「和睦」という熟語がありますね。睦は「むつまじい」という訓がありますが、名前の読みとしては「ちか」があり「徳川宗睦(ムネチカ)」の例が載っています。尾張藩の藩主で、昨年のNHK大河ドラマ「べらぼう」で榎木孝明さんが演じていました(榎木さんは今年の「豊臣兄弟!」でも登場。重宝されていますね)。他に、水戸藩の徳川斉昭の側室に「万里小路睦子(までのこうじちかこ)」という女性がいたそうです(「新訂増補 名前から引く人名辞典」日外アソシエーツ)。
むつまじいのは「近い関係」ということで「睦」に「ちか」という連想が働いたのでしょうか。あるいは「ちかしい」は「近しい」以外に「親しい」とも書き、人名でも「親=ちか」(俳優・市村正親さんなど)と使われます。「親睦」の字を媒介に「睦=ちか」という読み方が派生したのかも。さらに「和睦」はお互い仲良く平和になるということで「和」の字に「睦」の読みが連想されて「ちか」という名と結びついた――これが一つの考え方です。
それなら「睦」という字を介さずとも、「親和」「和親」の連想で「ちか=和」となったと考えた方が分かりやすいですね。今は「親和性」という言葉などで使われますが「日米和親条約」のことを考えると「和」が先の「和親」が明治時代には連想が働く余地が大きかったのかもしれません。
ただ、一般論とは別に、大関和の父が栃木の黒羽藩の家老だったことを勘案すると、徳川家にも関連する読み「ちか」と和睦の「和」が結びつくという発想もありえなくはないと思うのです。
大関和の初の著書は1899(明治32)年の「看護婦派出心得」ですが、その前から「和」の名は使われていました。ただし同一文書に「知加」も使われるなど揺れがありました。ちなみに日清戦争の講和条約は95(明治28)年。講和すなわち和睦です。ここに至って「和」が不動になったとは考えられないでしょうか。
そして「派出看護婦心得」第3版(1906=明治39年)には、こんなページが挟まれています。

いつの撮影なのか分かりませんが「祝講和成立」というのは出版前年に終わった日露戦争のことと思われます。「祝戦勝」ではなく、こう書くところにも「講和」すなわち「和睦」の「和」という文字を好んだことが表れているとはいえないでしょうか。それは多くの傷病兵に接したであろう彼女の「平和」を願う心の表れだったのかもしれません。
【岩佐義樹】
