by Tomomarusan
想像してみてください。時は秋。あなたは和食レストランに入り、メニューを開きます。そこには「マツタケづくしの秋薫る鍋」の文字。いいね、あたたまるし、ああ、メニューの写真から芳香が漂ってきそうだよ。そう思ったあなたは、ちょっと奮発して「マツタケづくしの鍋」を頼もうとします。そこでふと、疑問に思います。この鍋、マツタケしか入っていないのに、なにが「づくし」なんだろう、と。
この違和感はどこから来るのでしょうか? 辞書で「づくし」を引いてみます。
づくし【尽】[接尾](動詞「つくす(尽)」の連用形から)名詞について、その類のものを全部並べあげる意を表わす。*幼学読本(1887)<西邨貞>三「…母は鳥、獣づくしの画を与へたるなり」
日本国語大辞典
分かりやすいのは、辞書の用例にあるように浮世絵です。
国立国会図書館デジタルコレクションより
それぞれ江戸時代に描かれた、「鳥づくし」「けだものづくし」と題の付けられたおもちゃ絵。おもちゃ絵とは、子供の遊びや教育のために描かれた浮世絵で、母上がこの絵を指さしながら「この鳥は?」「この動物は?」と優しく子供に語りかける様子が目に浮かびます。
そして辞書の「づくし」の説明通り、絵の中にはそのたぐいのものが並べあげられています。「鳥づくし」ではツルやクジャクやシジュウカラ、「けだものづくし」ではゾウやウサギや獅子までも。
これが動詞「尽くす」の「②あるかぎりを出す」(広辞苑)という意味を帯びた「づくし」の本来の姿といえます。
絵だけでなく、人形浄瑠璃にも「づくし」は登場します。近松門左衛門作「心中天の網島」。この作品で、心中する男女が死に場所まで向かう道中を描く道行(みちゆき)は「名残の橋づくし」と名付けられています。
いとしかはいと締めて寝し 移り香も何と流れの蜆川
西に見て朝夕渡る此の橋の 天神橋は其の昔
菅丞相と申せし時 筑紫へ流され給ひしに
君を慕ひて太宰府へたった一飛び梅田橋
跡追松の緑橋
別れを嘆き悲しみて跡に焦るる桜橋…
これは二人の死の旅のほんの始まりで、これからまだまだ幾つもの橋を渡ります。道々にある橋の名を並べあげながら、二人は少しずつ死に場所へと近づいてゆくのです。そして最後に渡るは三途(さんず)の川――。
さて和食レストランで料理を待ちながら、頰づえをついて窓の外を眺めていたあなた。先ほど頭をもたげた疑問の正体に気がつきました。「マツタケづくしの鍋」では、マツタケという1種類のキノコが鍋という一つの料理に使われている。このとき、ほかに並べあげられているものはないから、「づくし」と名付けられていることに違和感があったのだ、と。
いろいろな種類のキノコが入った「キノコづくしの鍋」や、「マツタケづくしのフルコース!<マツタケの土瓶蒸し><マツタケの網焼き><マツタケご飯>」などと書かれたメニューだったら、気にならなかったのになあ。
頰づえをやめ、今度は腕組みをして天井を見上げました。にしても、料理で○○づくしってよく目にするよなあ。イチゴづくしのデザートフェアで巨大なイチゴパフェを食べたのは春のことだっけ。「づくし」って書かれちゃうと、丁寧に作ってくれたような、なんとなくいい印象を受けるんだよなあ。
それには、こういうことが考えられませんか。
こころづくし【心尽(く)し】①人のためにこまごまと気をつかうこと。また、そのようにして調えたもの。「母の―の手料理」
大辞林
これは動詞「尽くす」の「⑤他のもののために努力する」(広辞苑)という意味を帯びた現代語。接尾語「づくし」のついた言葉の仲間ではありませんが、響きは同じ「○○づくし」。「心づくしの手料理」のイメージが強いので、「○○づくし」の料理とあると、心をこめて一生懸命作ってくれたような印象を受けるのではないでしょうか。
ぐう。おなかが鳴ったあなた。窓の外にはいつの間にか、夜のとばりが下りています。
いとしおいしとかみ締めて 残り香も何と流れのマツのタケ
横目見て朝夕食べしみそ汁の それでもおいしエノキダケ
シメジ慕ひてシイタケのたった一飛びマイのタケ…
替え歌を口ずさんでいるとようやく料理が運ばれてきました。さあどうぞ、召し上がれ。
【湯浅悠紀】