東日本大震災について、国や社会に訴えたいこととして「明日は我が身、他山の石としないで、皆さんには備えを十分にしていただきたい」とありました。この「他山の石」の使い方は正しいのでしょうか。
もう10年ほど前になります。東日本大震災について、国や社会に訴えたいこととして「明日は我が身、他山の石としないで、皆さんには備えを十分にしていただきたい」とありました。この使い方は正しいのでしょうか。
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意味が分からない人が最多
そもそも、「他山の石」という言葉はどれくらい知られているのでしょうか。文化庁の2013年度「国語に関する世論調査」によると、この言葉の意味を問う質問で、「分からない」が35.9%と最も多かったという結果が出ています。2004年度では27.2%でしたから、この傾向が続いているとすると、もっと増えている可能性もあります。
実のところ、私自身もこの言葉を使うようになったのは会社に入った後です。部内報で他紙の間違いに触れて「他山の石」とある言葉を見て自分でも使うようになったと記憶します。
そして「他山の石」は誤用が多い表現として取り上げられることが多いことを知りました。その多くは「他人の立派な言行を良い手本にする」という意味と誤解されているというものです。「毎日新聞用語集」の「誤りやすい表現・慣用語句」の項にも「『他人のつまらない言行でも、自分の知徳を磨くための参考にする』との意味であるのに、他人の立派な言行を良い手本にするといった意味に誤用される」とあります。
文化庁の国語に関する世論調査でも、「他人の誤った言行も自分の行いの参考となる」と「他人の良い言行は自分の行いの手本となる」という選択肢が用意され、前者が本来の意味とされています。
「他山の石」の類語は「反面教師」
ところが、冒頭のコメントの例は「他人の良い言行は自分の行いの手本」という誤解とは違います。意味としては「人ごと」「対岸の火事」と同様にとらえていると思われます。しかし「他山の石」と似た意味の言葉を挙げるなら「反面教師」「人のふり見て我がふり直せ」でしょう。意味はまるで逆です。
私の見るところ、こういう誤用は、文化庁などが例示する「手本」の意味の誤解よりももっと多い気がします。インターネットでは「今回の地震発生を他山の石とせず、地震災害調査連絡会が有効に機能するかどうかを確認する」といった例がすぐに見つかります。
では、冒頭の例はどう直せばよいでしょうか。
「他山の石としないで」を「他山の石として」とすれば、とりあえず間違いではなくなります。しかし、それだけでいいのでしょうか。
もう一度「他山の石」の意味を確認しましょう。「他人のつまらない言行でも」「他人の誤った言動でも」などとあります。
東日本大震災は人災の側面もありますが、「つまらない誤り」というにはあまりにも犠牲が大きすぎます。「他山の石」という言葉自体を使わない方がよいのではないでしょうか。
直すなら「東日本大震災を教訓として」「……を対岸の火事としないで」などとした方がよいと思います。
広辞苑「自序」の「他山」は適切か
ちょっと余談になりますが、広辞苑第1版(1955年)の新村出「自序」に「他山の石」が出てきます。
私の次男猛は、苦心努力の結果、辞書編集上、望外にもこよなき良い経験と智識とを得たかと信ずる。彼自身もまたフランスの大辞典リットレないしラルース等の名著およびダルメステテール等の中辞典から平素得つつある智識を、他山の石として、乃父の『改訂辞苑』旧版本の礎石の材料にも供してくれた。
広辞苑の前身辞書の編集作業に次男、新村猛が協力してくれたことを「他山の石」として感謝している文脈です。自分の子だから謙遜して「つまらない石」にたとえたのでしょうか。いや、新村出は1954年の別の文章でも「外来語そのほかの点に、余力を以て他山の石を供給されたことを忘れるわけにはゆきません」と世話になった人に謝辞を述べています。今の辞書の記述に照らすと「失礼」とされかねない使い方です。
高名な国語学者でも誤用がないとはいえませんが、この場合は間違いといえるでしょうか。
実は「毎日ことば」で「他山の石」についてアンケートをしたとき、そのまとめの文章で初めて知ったのですが、出典の「詩経」では「他山の石」は必ずしも悪い意味ではないそうです。
成語の由来となったのは詩の最後の句で「它山之石 可以攻玉/它山(たざん)の石も 以(もっ)て玉を攻(みが)く可(べ)きならん」(「它」は「他」と同義)。
その「通釈」を見ると「ここに嫁ぎし他国の娘も、玉を磨く砥石のごとく立派な妻となろう」とあります。何のことか。詩の全体は、鶴が鳴いているとか魚が泳いでいるとか木が茂っているとか、何となくめでたい雰囲気です。「它山」は外国のことであり、「『它山之石』とは即ち他国から嫁いで来た女性と解し得る。(中略)他国から嫁いで来た娘に対して、玉を磨く石のように立派にその妻としての役を果たすであろうと、祝頌(しゅくしょう)する句と解せられ」ると言います。
新村出はこの意味で、外国の国語辞典を学んだ協力者として「他山の石」を使ったのかもしれません。
また、「岩波ことわざ辞典」では(2)の意味として「ほかを参考として自分の役に立てること」とあります。新村出が詩経と似た意味で用いているのか、単に「参考」の意味なのかは分かりませんが、彼の言語感覚としては他山の石は「つまらない石」と認識されていなかったようです。
自分の役に立てることが本質
こうしてみると「他山の石」は多様な使われ方があります。ただし、つまらないと思うかどうかはともかく、それら他人の言行を自分の役に立てるということが「他山の石」の本質ということは不変でしょう。
人ごとや対岸の火事と捉えるのは本質的に誤りといえます。冒頭の誤りはそれこそ「他山の石」としてほしいものです。
【岩佐義樹】