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日本語の文法上、存在しえない
久しぶりに文法の活用表を活用しました。終戦記念日、安倍晋三首相の式辞のおかげです。
「世界の恒久平和に、能(あた)うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります」
「能うる限り」は「能う限り」の間違いじゃなかろうか。そう思って手元の辞書をひくと「あたう」の項の用例に「-限り」とあります。もっともその例だけでは「能うる限り」が間違いとはいえないかもしれないと思い、文法で理論武装を試みました。
「あたう」は口語でワ行五段活用とあります。そこで辞書の巻末の「動詞活用表」「五段」「ワ」のところをみますと、「思う」が例でしたが「うる」という活用はありません。つまり「思うる限り」という日本語がないと同様に「あたうる限り」という日本語は文法上、存在しえないわけです。
国語辞典も「誤り」と明記
とはいうものの、ほとんど忘れかけていた文法を金科玉条に、今をときめく首相の式辞に異議を唱えてしまっていいのだろうか?
念のため「あたうる限り」は間違いだと明確に断言してくれる文献はないかと探すと、ありました。「明鏡国語辞典」(大修館書店)。
普通、国語辞典は「こういう言い方は間違い」と書かないものですが、この辞書はそれをやってくれていますのでこういうとき頼りになります。いわく、「『能う限り』を『能うる限り・能ううる限り』とするのは誤り」。
職場には参照用に安倍首相の演説原稿が回ってきていましたが、それも「能うる限り」となっていました。首相の読み間違いではなかったのです。
“妙な部分”多い首相演説
実は前から、安倍首相の演説を記す文章には校閲の立場から妙な部分があると思っていました。
最初に疑問に思ったのは2013年4月28日の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」での次の一節。
「国、敗れ、まさしく山河だけが残った」
杜甫の有名な漢詩の初め「国破れて山河あり」をふまえているのは明らかなので「破れ」ではないかと思いました。同僚も同じ疑問を持ったようで、校閲の引き継ぎ帳に「政府発表原本では『敗れ』なので放置」とありました。まあこれは、引用であることを明示していないので、間違いではありません。
次に気になったのは同年6月23日の「沖縄全戦没者追悼式」のこの一節。
「私はいま、沖縄戦から六十八年を迎えた本日」
いや、6月23日といえば「沖縄での組織的な戦闘が終わった日」でしょう。分かっていて縮めたのかもしれませんが、不適切です。たとえば8月15日に「戦争から68年を迎えた本日」とは絶対に言えないでしょう。これも、演説原稿の通りでした。
首相演説にも校閲は必要
そして今回の「能うる限り」。調べると、安倍さんがこの言葉を用いるのは初めてではないようです。
外務省のホームページに、第1次安倍内閣時代の2007年のインドネシアにおけるスピーチ記録が残っています。その中に「私と日本国民は、あたうる限りの努力を一緒にさせていただきたい」とありました。その通りに述べたとすると、ずっと前から安倍さんは間違った言葉遣いをしてきた可能性があります。
いや、安倍さんとは限らずスピーチライターの間違いなのかもしれませんが、いずれにせよ、首相演説の原稿という重要文書にも、不適切な表記・表現がどこに潜んでいるかわかりません。
新聞・出版物に校閲が不可欠なように、どんな文章にも、第三者によるあらゆる角度からのチェックは必要でしょうね。
【岩佐義樹】