一般的に流布していても、新聞校閲では問題にしなければならない言葉は山ほどあるが、「募金」は最近の代表格といえるだろう。
一見して分かりやすい誤用は「募金を募る」。「募」の重複だ。しかし問題はそれだけではない。「募金」を辞書で引くと「寄付金をつのること」(広辞苑)という語釈が一般的である。要するに、「募金」とは「集める側の行為」なのだ。
この語釈を「募金を募る」という例に代入すると「『寄付金を募ること』を募る」。相当変なことは一目瞭然だ。
では、「募金を集める」「集まった募金」はどうだろう。「募」の字のダブりがないぶん「募金を募る」よりは抵抗が少ないかもしれないが、「募金=寄付金を募ること」という公式を代入すると「『寄付金を募ること』を集める」「集まった『寄付金を募ること』」ということになり、やはり珍妙。
「募金を呼びかける」は? 「『寄付金を募ること』を呼びかける」ということになり、「募金活動をやりませんか?」と寄付金を集める仲間を求める、という意味になってしまう。しかしそんな意味でこういう表現はあまりしないだろう。単に「募金活動をする」という意味で「募金を呼びかける」と書いている場合が大半に違いない。
「募金活動をする」意味で「募金を呼びかける」が使われているのを直すとすると、「募金」「呼びかけ」の言葉を生かしたいならちょっとだけ挿入し「募金への協力を呼びかける」とするのがよい。また「募金の呼びかけをする」とする手もある。「『寄付金を募っています』という呼びかけをする」と解釈できるからだ。ただ「募金を呼びかける」がダメで「募金の呼びかけをする」を可とする理由はすぐには理解されないかもしれない。
なお「義援金を呼びかける」という言い換えは「募金を呼びかける」よりはいいが、「金を呼びかける」という言い方はしないので、感心しない。
新解釈を採用の辞書も
――などと、校閲では日々「募金」の本来の意味を大事にすべく頭を使っているのだが、一方でちまたには「お金」そのものとして使う用法があふれている。そのため、最近の辞書では新解釈も出てきた。
◆寄付金などを集めること。また、その集めたおかね。「―活動」(三省堂国語辞典第6版)
◆①寄付金などを一般から集めること。また、その金。「―を呼びかける」「―に応じる」「多額の―が集まる」▽主催者側からいうことば。②〔俗〕①に応じて、金を寄付すること。また、その金。「難民救済のために多額の―をした」「―を差し出す」▽主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの。(明鏡国語辞典第2版)
◆寄付金などを広く一般からつのること。「街頭―に応ずる」▽醵金(きょきん)・寄付する行為の意は一九八〇年ごろ学校から広まった誤用で、現在かなり多用。教師が言った「―のお金を持って来なさい」などを寄付の金銭と誤解したせいか。(岩波国語辞典第7版新版)
辞書の新しい版ほど新解釈を採用する傾向がある。ただ、「寄付すること」との解釈を入れている辞書も、「俗」「誤用」と断っている。一方、「集めたお金」を示すとする2種の辞書は「俗」とも「誤用」とも付けていない。
つまり、最近の辞書では
◎寄付金を募ること
○集めたお金
△寄付する行為
という図式と言えるだろう。
しかし、たくさんある辞書の中では、新解釈を採用するのはごく一部にすぎない。広辞苑、大辞林など大型辞書は新しい版でも「集めた金」「寄付する行為」の意味は採用していない。やはり、日本語の現実ではなく規範を示すという方針の下に編集する立場では、新解釈は認めがたいのだろう。
毎日新聞ではどうするか
新聞としても、多少は今の日本語の実態を反映せざるを得ない部分もあることは認めつつ、やはり規範の意味を大切にしたい。そこで、先ほど挙げた○△は辛くして、
◎寄付金を募ること
△集めたお金
×寄付する行為
という判断で臨みたい。「集めたお金」の意味を△としたのは、限りなく×に近い△であって、極力避けたい。ただし、外部筆者原稿など直しにくい場面はあるので、やむを得ないときのみ認めるということだ。
以上くだくだ述べてきたことを、まとめてみよう。
「募金(する)」は金を募ることで、寄付することではない。金を出す行為は「募金に応じる」「募金に協力する」「寄付する」などとする。
募金を募る・集める→寄付金(義援金)を募る・集める、募金をする、募金活動をする
募金を呼び掛ける→募金への協力を呼び掛ける
【岩佐義樹】