清少納言の「枕草子」には言葉の使い方に関する苦言が出てきます。でも、ただ「こういう使い方は誤りだ」と苦言を呈するだけではありません。言葉の揺れか変化か、俗用と正用の使い分けは――など現代にもそのまま当てはまる「日本語論」を紹介します。
清少納言は言葉への関心が深かったようです。「枕草子」第185段はいわば「日本語の乱れ」がテーマ。この問題に日々頭を悩ませている校閲としては心をぐっとつかまれるものがあります。
目次
品がない言葉は「ダサイ」
ふと心劣りとかするものは、男も女も、言葉の文字いやしう使ひたるこそ、万(よろ)づのことよりまさりて、わろけれ。
ただ文字一つに、あやしう、あてにもいやしうもなるは、いかなるにかあらむ。
さるは。かう思ふ人、殊にすぐれてもあらじかし。いづれを、「善し」「悪し」と知るにかは。されど、人をば知らじ、ただ、心ちにさおぼゆるなり。
いやしき言(こと)も、わろき言も、さと知りながら、ことさらにいひたるは、悪(あ)しうもあらず。わが持てつけたるを、つつみなくいひたるは、あさましきわざなり。
また、さもあるまじき老いたる人・男などの、わざとつくろひ、鄙(ひな)びたるは、憎し。
以上は「新潮日本古典集成 枕草子」の第185段から。これを底本にしたという橋本治さんの「桃尻語訳 枕草子」の現代語訳を引用します。
急に幻滅とかするもんは、男も女も、言葉の文字を品がなく使ってるっていうのがさァ、ホーント、どんなことより一等、ダサイわね。たった文字一つで、ヘンなもんだけど、優雅にも下品にもなるのは、どういうことなんだろうね。
(そんでもさ、そう思ってる人間が特別にすぐれてもいない訳よね。どれが“いい”で“悪い”かって、知るもんかァ――でもさ、人は知らないよ。ただハートでそう感じるのよね)
下品な言葉もダサイ言葉も、そうと知っていながら殊更に使ってるのは、悪くもないのよ。自分が使いつけてるのを用心なしで言っちゃうのがあさはかなことなのよ。
あと、そんな風でもない年寄り、男なんかが、わざと真似して田舎くさいのは、ムカつくね。
簡単には分からない日本語のよしあし
いかがでしょう。日本語自体は変わっても、日本語の「乱れ」をめぐる問題意識は1000年前から全く変わっていないと思いませんか。
言葉の「いやしき」使い方、つまり俗語、俗用に苦言を呈するところで昔も今も変わらないなあと思わせる一方、下品な言葉を、そうと自覚した上でわざと使うことは悪くないと清少納言は言います(「だからあたしはこういう文章書いてるのよ♫」と橋本清少納言は開き直った注釈を付けます)。そうではなく、ちゃんとした場面ではその場にふさわしい言葉を使うべきだと清少納言は言いたいのでしょう。
しかし私が面白いと思うのは、清少納言が言葉の正しさを言い立てて「最近の言葉遣いはダメよねえ」と嘆くだけではないことです。「いづれを、『善し』『悪し』と知るにかは」と、自分は言葉の正邪の判断ができるほどの人間ではないと、正直にか謙遜からかわかりませんが述べた上で、ただ自分の「心」で善しあしを感じるらしいのです。
「こっちが正しいのですか」「これは間違いなんですね」などと他部署の人からよく私たち校閲に確認されることがありますが、本当のところ、はっきり○×の区別が付けられるケースばかりではありません。毎日新聞用語集に照らしてもはっきりしないことは、過去の記事や同僚の意見などを参考に、なるべく客観的に答えようとしますが、それでもよく分からないときはあります。結局頼るのは、清少納言ではありませんが自分の「心」なのかもしれません。
平安時代の「と抜き」と現代の「っ抜き」
枕草子の引用を続けます。
なに言(ごと)をいひても、「その事させむとす」「いはむとす」「なにとせむとす」といふ「と」文字をうしなひて、ただ、「いはむずる」「里へ出でむずる」などいへば、やがていとわろし。まいて、文に書いては、いふべきにもあらず。
物語などこそ、悪しう書きなしつれば、いふかひなく、作り人さへいとほしけれ。
どんなことを言うんでも、“そのことをそうしようってさ”“言おうってさ”“どうしようってさ”っていう“って”の字をなくして、ただ“言おうさァ”“家に帰ろうさァ”なんて言うと、そんだけですっごいダサイ。ましてよ、手紙に書いてじゃ、言うべきにもあらずよ。
物語なんていうのはホーント、悪い言葉で書いてあったりしちゃうと、どうしようもなくって、作者までが気の毒だわよねェ。
「と」を略する使い方は、「言おう思う」「そうしよう思う」などは話し言葉で言うことがあるかもしれませんが、少なくとも今、はやっているといえないし、書き言葉では間違いとされるでしょう。平安時代の「と抜き」は定着したとはいえません。
ちなみに現代の日本語で、私が気になる「1字抜き」は、「って」の「っ」を抜かし「人間て面白い」などという書き方が多いこと。橋本治さんも「桃尻語訳」で「身分ていうことを考えれば、言葉には三種類あるのね」などと「っ抜き」を使っています(ちなみにこれは敬語についての枕草子第244段の注釈です。敬語の使い方の苦言も現代と全く同じでちょっと苦笑)。しかし、すべてそうなるわけではなく「って」も多用されています。
どうやら「っ抜き」が発生しやすいのは「にんげんって」「みぶんって」など「ん」に続く場合のようです。その脱落が必然のもので、間違いといえず今後定着していく流れなのかは分かりません。ただ、「心」が気持ち悪いので、仕事で「っ抜き」を見つけたら私は必ず「人間って」などと「っ」を入れています。
言葉の「変化」も一時期だけかも…
今の「日本語の乱れ」といわれる現象に対し、しばしば「乱れ」ではなく「変化」と捉える見方があります。でも、神ならぬ人間には100年後、1000年後の言葉の変化を予想するなんて無理。清少納言の時代に使われたという「いはむずる」などがなくなったように、一時期だけの流行になる可能性も大いにあります。
だから、清少納言が「まいて、文に書いては、いふべきにもあらず」などと文章語を厳しく見ていたと同じく、校閲も厳しい目で直しを入れなければと思います。しかし「そもそも『……って』なんて言葉からして俗語なので『……と』と書くべきだ」とまでガチガチに頭が硬くなるのも考えもの。清少納言もいうように、くだけた言葉をそうと知った上でわざと使う場合は許容範囲とすべきことも多いでしょう。
言葉は使う場面や相手を考えて使うべきよね――1000年前の女性は、決してお説教になることはありませんが、現代に通じることを軽やかに言ってのけます。その柔軟さと、日本語を大事にする重みとのバランスを考えつつ、校閲の仕事をしていきたいと思います。
ところで「物語などこそ、悪しう書きなしつれば、いふかひなく」と清少納言が批判した物語って何でしょうね。ちょっと気になります。
【岩佐義樹】