1923年11月10日に誕生したといわれ、生誕100年を迎えた忠犬ハチ公。生誕の地である秋田県大館市や、銅像が待ち合わせの名所になっている東京都渋谷区で記念行事が行われ、ハチの生涯が各社の記事で紹介されている。校閲作業で読んでいるうちに、ふと浮かんだ疑問があった。改めて考えると、「ハチ公」の「公」ってどういう意味だろうか。ペットなのに、なぜ「ハチちゃん」ではないのか。
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敬称・呼称はどのように使うか
毎日新聞のルールでは、人名には原則として敬称・呼称をつける。「さん」「氏」「ちゃん」などを使うが、省略する例外は、次のような場合だ。▽政府や企業などの人事異動の人名▽運動記事に載る運動選手と文芸・芸能記事に載る文芸・芸能人▽歴史上の人物。例えば「豊臣秀吉さん」とは書かない。
ただし、各地で「おらが国の殿様」と慕われる武将を呼び捨てにせず「新田義貞公」などと表記する場合もある。「武田信玄公祭り」などと祭りと一体化した固有名詞であれば、なおさら「公」を省いたりしないし、祭りの由来などの説明で「●●公は善政を敷いた」とあるのがふさわしければ、「公」を使うのを許容する。
歴史に登場する敬称は
江戸時代までの武将に、尊称として「公」をつけることがあるが、明治以降の偉人に「公」をつけようとすると、それが正解かどうか微妙な時もある。江戸時代については、大名(知行1万石以上)だった場合は名前に「公」をつけてもおかしくないが、知行1万石未満の旗本だと、どうだろうか。ただし、大名も旗本も目下の者からは「殿様」と呼ばれていたというから、「公」のつけ方も、現代人には厳密に線引きできないかもしれない。
明治以降に爵位を受けた人物の場合は、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位に応じて「伊藤博文公」「大隈重信侯」「勝安芳(海舟)伯」などの呼び方があった。取材先で明治以降の史実について「●●侯」と口頭で聞き取り、てっきり武将の「公」だと思うと、違うこともある。「子」や「男」を名前の下につけて呼ぶ作法もあったらしいが、今では違和感がある。
外国の爵位はどう呼ぶのか
このたび英国の外相に就任したキャメロン元首相は、上下両院の議席を持っていなかった。英国の閣僚は上下両院から選ばれる慣例があるので、「一代貴族」として男爵の爵位を受けて上院(貴族院)議員として外相を務めることになった。「キャメロン男爵」は別名「キャメロン卿」とも呼ばれるらしい。「キャメロン男」とされるよりはしっくり来る気がする。
日本では、大名だったかどうかを基準にしても正解かどうかを判断するのが難しかったように、首相や大臣を歴任した場合に、明治時代の人物でも大名のように扱って、爵位と関係なく「●●公」としないわけではない。要するに、「公」は尊称として使うので、現代の「様」のように、広い範囲で使えたとも言える。
ハチ公は目上か目下か
さて、ハチ公に話を戻すと、ハチの「公」は大名や公爵と同じかといえば、少し違うようだ。この「公」は、落語で熊五郎が仲間から「おい、熊公」と呼ばれる使い方と同じで、辞書では「同輩、もしくは目下の者の名前に付けて、親しさや、軽い軽蔑の意を表す」と説明するものもある。尊称というより、愛称と言うべきなのだろう。犬を軽蔑していいのかとお怒りの向きもあるだろうが、昔の価値観としてご理解いただきたい。
夏目漱石が明治時代に書いた「吾輩(わがはい)は猫である」がなぜおかしな小説なのかといえば、題名からして、家庭の中で人間よりも軽く見られていた猫が、「吾輩」という地位や名誉のある人物が使う一人称で語りかけている点に注目してほしい。しかも、「吾輩は猫である」と大げさに語り始めたのに、続けて「名前はまだ無い」と、名前もつけてもらえない「立場」を明らかにしていて、さらに面白い。
愛くるしい「公」もある
ハチ公生誕100年の関連記事では、渋谷の銅像は「忠犬ハチ公像」、飼い主との物語に言及する古い記事などでは「ハチ公」としている例が多いが、現在の視点からは「歴史上の犬」として捉えて、「公」をつけずに「ハチ」と書くのが妥当ではないか。かつて「ハチ公」の「公」に軽蔑の響きがあったのなら、なおさら使わない方がいいのかもしれない。
一方で、軽蔑の意味よりも「同輩、もしくは目下の者の名前に付けて、親しさ」を表す愛称として「公」を使うなら、許容できないこともない。昨今はペットを家族同然に愛する人も多く、「えさをやる」という言い回しに抵抗があるのか、「えさをあげる」と敬語風に表現する人もいる。友達同士の「●●くん」「●●ちゃん」と同様の使い方で、あえてハチを「ハチ公」と書く場合もあるだろう。校閲記者としては、「公」を使うかどうかは、文章全体を読んでから、筆者と相談していくことになるだろうか。