「あーあ、やっちゃったな」。新聞の隅に「訂正」や「おわび」が掲載されると、自分がその作業に関係した時はもちろん、そうでない時もドキドキする。その日の「おわび」は名前の間違い。「Y沢容疑者はY沼容疑者の誤りでした」。記事の最初はY沼だったのに、何度か出るうちの1回だけ、Y沢になっていたというもの。もちろん間違いだが、まるで、事件にはY沼、Y沢と2人の容疑者がいるような……というか……1人の容疑者を2人の人物が演じる「2人1役」というか……。
映画や芝居、ドラマでは、ひとりが二つの役を演じる「1人2役」は珍しくない。では「2人1役」というと、そうそう、大河ドラマや連続テレビ小説では、子ども時代を演じる人、成人してからを演じる人、老いてからを演じる人、という具合に、複数の俳優が一つの役を演じることがある。昨年の「あまちゃん」でも、主人公、アキの母、天野春子は、有村架純さんと小泉今日子さんが演じていた。とはいっても「これは有村さん演じる春子」「これは小泉さん」と、演じる時代が異なるので、視聴者が混乱することはない。
ところがものすごい「2人1役」をみたことがある。スペイン出身のルイス・ブニュエル監督が1977年に撮った映画「欲望のあいまいな対象」。同監督の遺作だ。ストーリーは、初老の紳士が列車のコンパートメントで、同乗者に自分の恋物語を語る形式をとる。紳士は若くて美しいメイドのコンチータに恋をするのだが、振り回されるばかりで、なかなか成就しない。コンチータは、ある時は情熱的で、ある時はクールビューティー。貞淑そうに見えたかと思うと、みだらなそぶりをみせる。初老の紳士と一緒に、観客も幻惑される。ひとりの女性でもいろいろな面があるということか。それとも、意味深なタイトルがいうように、思い入れや欲望が強すぎると、対象がいろいろな見え方をして、結局あいまいになるということ?
でも、それにしてはおかしい。映画の冒頭に登場するコンチータは、黒髪のスリムな女性で理知的なフランス語をしゃべっていたような気がする。しかし次のシーンのコンチータは、情熱的で肉感的な女性。そしてハスキーなスペイン語なまりのフランス語だ。どう見てもこれは別人でしょ!
黒髪のコンチータはフランスの女優、キャロル・ブーケ。ハスキーな女優はスペインのアンヘラ・モリナ。2人はまったく似てもいないのだが、場面がかわるたびに、順番に紳士の前にあらわれては、コンチータという1人の女性を演じる。最初にこの映画を見たとき、自分でも知らないうちに居眠りして話が飛んだのか、それともまったく理解する力がなくなったのか、と思った。紳士の欲望が成就するかどうかは映画を見てのお楽しみとして、では、なぜ「2人1役」となったのか。
監督は当時、ある女優と仲たがいをして、この映画の撮影中止を一度は決心した。しかし意気消沈してプロデューサーとバーで杯を重ねるうちに、ふとひらめいたという。「それはだれも実現したことのないアイデアで、ひとりの人物の役を二人の女優に演じさせるのである……かくして映画は、バーのおかげで命拾いした」(「映画 わが自由の幻想」早川書房)
ブニュエル監督は「そもそも大多数の観客は、女の役を二人で演じていたことに気がつかなかった」(同)と考えていたようだ。校閲をするわれわれがまねすることではない。酒を片手の作業も、「間違ってもだれも気づかないさ」という不遜な考えも無縁な話だ。しかし、不注意な表記ミスを見逃せば、読者に謎の「2人1役」を提供して、即おわびとなる。初心にかえろう。一言一句、注意しなくては。
【原田幸治郎】