サンデー毎日に毎日新聞校閲記者が交代で執筆している「校閲至極」が連載5年となりました。第1回は校閲が知られるようになったという話から始まりましたが、これは毎日新聞に連載されたあるコラムを踏まえたものでした。一部紹介します。
サンデー毎日に2018年6月発売号から毎日新聞校閲記者が交代で執筆している「校閲至極」が連載5年となりました。ウェブ版はこちらです(有料)。第1回は「鍾乳洞」の字の間違い(鐘)の指摘でしたが、その前にこういうやりとりから書き出されていました。
目次
「校閲至極」はこうして始まった
「校閲です」
「コーエツ?」
「コーは学校の校でエツは門構えの」
――これは、3~4年前に『毎日新聞』でそれとなく始まり、さりげなく終わった月1回の目立たないコラムで、最初に取り上げた会話である。「コーエツ」の漢字説明に苦労し、「門構えに兌換(だかん)紙幣の“ダ”です」と説いてさらに相手を困惑させてしまう悩みをつづった。「校閲」そのものが世間にあまり認知されておらず、常用漢字でありながら「閲」の字を分かってもらうのが難しかったのだ。「悦楽の“エツ”の右側」と言えばいいと助言を受け、コラムのタイトルが「校閲の悦楽」となった経緯もある。
そんな環境が一変した。「校閲ガール」の登場である。宮木(みやぎ)あや子さんの小説が日本テレビ系で3カ月のドラマとなった2016年秋、主人公「河野悦子」を演じる石原さとみさんのおかげで、以後「校閲」を一から説明する必要がなくなった。
ここで述懐されている「校閲の悦楽」は、2014年10月から毎日新聞朝刊に月1回で1年連載された、林田英明記者による個人コラムです。期せずして「河野悦子」の悦の字つながりになりました。
今回は「校閲至極」の“前章”というべきこのコラムのほんの一部を紹介します。
とんでもない部署に入った
「領収書は『毎日新聞校閲部』でお願いします」「コーエツ?」
書店での会話には、いつも苦労する。「コーは学校の校でエツは門構えの」。これで店員の理解を得られるとは限らない。「ダカン紙幣のダです」と“兌換”を持ち出して相手の困惑を深めてしまう。仕方ない。「悦楽のエツの右側です」とわが品性をさらけだして解決へ向かう。
1982年、西部本社校閲部に配属されて始まった社会人生活。途中14年間、見出しやレイアウトを含め記事の扱いに頭を悩ませる整理部に異動したが、校閲に戻って今年55歳を迎えた。
最初の部長はこう言った。「広辞苑を2回読んだけど、まだ全部覚えきれない」。希望とはいえ、とんでもない部署に入ったと戸惑った。辞書は、引くものではなかったのか。
何事もなければ、目につかない存在。ところが誤りが紙面化し「おわび」「訂正」に至れば「校閲は何をしていたのか」と存在を逆照射される因果な職分だ。素晴らしい原稿もたった一つの間違いで台無しとなり、冷めた目で読者に見られた揚げ句、信用と信頼を失ってしまう。
間違いは、どこに潜んでいるかは分からない。締め切りまでの許された時間で、勘所も働かせながら丹念な作業を進めていく。より求められる体力は、瞬発力よりも持久力だろう。
【林田英明】
(毎日新聞2014年10月20日)
「ヘラヘラ」笑えない
「肇」の字を「ハナ肇のハジメ」と説明した同僚が大先輩に一喝されたことがある。「それはチョウコクのチョウ。国を始めるという意味だ。今どきの若いモンは知らんのか」
校閲職場で鍛えられ、いつしか私もそれが「肇国(ちょうこく)」という言葉と知ったが、日常語とは到底言えない。結局、同僚と同じ説明をした記憶がある。しかし、コメディアンやバンドメンバーとして活躍したハナ肇さんも死去して20年以上たち、この説明が通じなくなる日も遠くない。
後輩がかつて校正で「八十歌」という単語に首をかしげていた。「詩人であり作詞家の西条八十の歌のことだろうか」と懸命に理解しようとした。悩んだ末に出稿元に問い合わせて、正解に脱力した。「ハナ歌」つまり「鼻歌」だった。カタカナが漢字のように見えて、入力する際に打ち間違えたようだ。
同じような間違いはほかにも。まさに「ハナ肇」さんが「八十肇」になったり、「東シナ海」が「東三十海」になったり……。
「カモは格闘技のチャンピオンになれるか」という不思議な文章が載ってしまったことがある。誤植だと見破るには「相撲に詳しいアナウンサーの出版に関するもの」というヒントが必要だ。「カモ」ではなく「力士」だった。
種田山頭火の有名な句が「ヘラヘラとして水を味ふ」となってしまったこともある。手書きの原稿で、カタカナに見えた。しかし「へうへう」が正しかった。「ヘラヘラ」と笑っていては「ひょうひょう」とした漂泊の俳人らしくない。ハナ肇さんのギャグ「アッと驚く為五郎」などとつぶやきはしない。
【林田英明】
(毎日新聞2015年7月27日)