歴史上の出来事を「いつ起きたのか」と確定するのはなかなか難しい。当時の日付が明らかであっても、旧暦から新暦などへ換算すれば、何らかのずれが出てくる。いまに生きる人々が史実の「記憶」を守っていくにはどのようにして節目となる日付を決めればいいのだろうか。
目次
イースターとは、いつなのか
毎日小学生新聞の校閲をしていて、複数の記事で「こよみ」について調べる機会があった。
例えば、キリストの復活を祝うイースター(復活祭)について。キリストは処刑されてから「3日目」に復活したという記述と、「3日後」に復活したという記述が見られた。「処刑された日から3日目」というと、処刑が13日だとしたら、「日目」は処刑当日を含んだ数え方なので、3日目は15日になる。「日後」ならば、処刑の翌日から数えるので16日が答えだ。
復活祭を何月何日にするかというのは相当論争があったそうで、結局「春分後、最初の満月直後の日曜日」と教会が決めたという。処刑が正確にいつであったか、復活が3日目なのか、3日後なのか、確定できないので、たとえ毎年期日が少しずつずれたとしてもよいと、合意したのだろう。
そもそも、キリスト処刑が紀元前後であったなら、当時は「ユリウス暦(旧西暦)」を使っていたはずで、1582年にそれを改良した「グレゴリオ歴(現西暦)」が採用されたため、仮にユリウス暦に基づく処刑日が確定できたとしても、現在の暦とは何らかのずれが生じるはずだ。
徳川家康の生まれた日は
徳川家康の生没年は辞典で「1542~1616年」とされていることが多い。これに異を唱える識者もいる。
すなわち、家康の生まれた日は「天文11年12月26日」で、この「天文11年」を単純にグレゴリオ暦に置き換えると1542年となるが、実は「12月26日」まで西暦換算すると、1543年1月31日が正解である。天文11年は11月25日までは1542年なのだが、それ以降は西暦の「翌年」になるのだ。
同じように、亡くなった元和2年4月17日も日にちまで換算すると、西暦では1616年6月1日となるので、元和2年だけを換算した「1616年」と旧暦の「4月17日」を組み合わせた「1616年4月17日」と表記すると、不正確な記述になってしまうわけだ。
赤穂浪士の討ち入りは「雪」の頃
同じようなことでいえば、江戸時代の元禄15年12月14日に赤穂浪士が吉良上野介邸に討ち入った事件も、年号だけでは元禄15年を1702年と換算してしまうが、日にちまで換算したら1703年1月30日である。
討ち入りの時に雪が積もっていたとされているが、西暦の12月14日は東京ではまだ雪が降る感じはしない。ところが、1月30日であれば、東京周辺の大学入試に雪が影響した記憶はいくつもよみがえってくる。複数の辞典を見ると、討ち入りについて「1702年」としている表記は結構あるようだ。
ユリウス暦、グレゴリオ暦、旧暦、三つを考慮すると
日本の旧暦からグレゴリオ暦に換算する例を書いたが、グレゴリオ暦は1582年から採用されたので、それ以前の日本に関する事柄を西洋人が日記などに記したならば、それはユリウス暦である可能性が大きい。となると、ユリウス暦で年月日が明記されていても、それはグレゴリオ暦に換算し直さなければならない。
ちなみに1582年は天正9~10年に当たる。天正10年は正に本能寺の変があった年であるから、天正15年に豊臣秀吉がキリシタン禁止を打ち出すまでに来日した宣教師や商人は、ある時期まで日本の出来事をユリウス暦で記録していたのかもしれない。
史実の確定と記念する思い
正確な歴史の日付を知るには、このような換算をすればいいのだが、その日付が「記念日」である場合はちょっと事情が違ってくる。家康の誕生日は旧暦の12月26日なので、地元・愛知県岡崎市の「家康公生誕祭」は毎年12月下旬に行われるようだ。
また、赤穂浪士にしても、兵庫県赤穂市と東京・泉岳寺では毎年12月14日に「赤穂義士祭」が開かれている。これらの関係者に「西暦に換算した当時の正確な日付は1月31日(家康の誕生日)と1月30日(討ち入り)ですよ」と言っても仕方ないだろう。
日本の弔いでは、故人が亡くなった月と違っても日にちが同じならば「命日」として悼む習慣がある。復活祭にしても、信者が合意できる日にちを決めただけで、本当の日付はよく分からない。正確な日付と、出来事に思いをはせるという気持ちの問題は別ものなのだろう。