インタビューの原稿で、子供の頃の夢をかなえたことに「ぞわっとした」という言い方がありました。確認した限りでは「ぞわっと」を載せる国語辞典は見当たりません。さて、どうすべきでしょうか。
インタビューの原稿で、子供の頃の夢をかなえたことに「ぞわっとした」という言い方がありました。確認した限りでは「ぞわっと」を載せる国語辞典は見当たりません。
だから不適切という話ではありません。使う場面が問題なのです。「ぞわっと」からイメージされるのは、普通は恐怖や気持ち悪さでしょう。夢を実現できた場面にはふさわしくないと思います。
目次
「鳥肌が立つ」も恐怖とは限らないが…
ではどうすればよいか。話者が言ったことならそのまま書くことも考えられますが、もともとインタビュー記事は相手のしゃべり言葉を一言一句そのまま再現しているわけではありません。日本語として不適切と判断したら、カットしたり、趣旨を変えない範囲で少し表現を変えたりすることもあります。
ここで連想されるのが「鳥肌が立つ」という慣用句です。これはよく話題になるのでご存じの人も多いでしょうが、寒さや恐ろしさの表現であり、感動の場面にはふさわしくないと指摘されることがあります。とはいえ、現実には取材相手がしゃべったことならそのまま載せるということも少なくないようです。
言い訳ではありませんが、最近の辞書は多く「感動して」鳥肌が立つ用法を加えています。例えば三省堂国語辞典8版は②の意味で「ぞくぞくするくらい感動する」とした上で〔一九八〇年代後半からよく話題になるが、古くからある用法〕と注釈で記します。
地の文はともかく、談話の「鳥肌が立つ」を許容範囲とすることはそれらの辞書からも判断できますが、感激の「ぞわっと」をどうすべきか、辞書に見当たらないので自分たちで考えるしかありません。
編集部内で議論し、「ぞっとした」「ぞくっとした」「ぐっときた」などの候補の中から、選ばれたのが「ぐっときた」です。三省堂国語辞典は「ぐっと来る」に「感激してなみだが出(そうにな)る」とあり、「ぞっと」「ぞくっと」と違ってネガティブな意味はありません。「ハッとしてグッときて」というのは以前の流行歌の歌詞ですが、文脈に最もふさわしい表現と思いました。
「感動してぞわっとした」の用例があった
さて、ここからは後日談ですが、ある意味ここから本題です。
実はこの話者は「ぞわっとした」ではなく「ぞっとした」と言っていたと後で分かりました。それを、さすがに違和感を覚えた記者が「ぞわっと」に変えたそうなのです。「ぞっと」はいけないけれど「ぞわっと」ならいけると思った、その違いに興味をそそられました。
毎日新聞データベースで「ぞわっと」を検索すると23件出ています。年や地域などの条件を付けない件数としてはかなり少ないので、現段階ではやはり新聞としてなじまない表記であることがうかがえます。
ただし、個別にみていくとちょっと面白い例が見つかりました。必ずしも恐怖、不快などのネガティブな使い方とは限らないのです。
例えば、俳句を学習させたAI(人工知能)が詠んだ恋の俳句「初恋の焚火(たきび)の跡を通りけり」に、19歳の女性は「初恋を『焚火の跡』と表現したのには、ぞわっとした」と、AIの恋の理解度に驚いた様子を示したとあります。これはAIに恐れを抱いたのではなく、素直に驚嘆したのではないでしょうか。
また、野球で応援するチームが「1点入るとぞわっと鳥肌が立った」という談話もあります。
不思議な話ではありますが恐怖ではなく、いい意味の感動と思われる例はこれ。
息子が3歳半の頃、雷の音を聞き突然こう言った。「まま、僕ね、雷様と一緒に遊んでたんだよ。それでお空の上から見ててままのとこに来たんだよ」と。ぞわぞわっとした。生まれる前日に雪起こしが鳴ったことなど話したことも無かったのに……。これが胎内記憶というものか!
いい意味か判定しにくい例もありますが、少なくとも4例は明らかにネガティブではありません。この比率をみると、記者が「ぞわっと」なら大丈夫だと思った気持ちも少し理解できます。
「ぞっとしない」は怖くないことではない
とはいうものの、それを言うなら「ぞっとする」も不適切ではない、という意見も出てくるかもしれません。
そもそも「ぞっとする」という言葉も、ネガティブな感情のみではなかったのです。例えば広辞苑7版で「ぞっと」を引くと、①の「寒気・畏怖・恐怖」の後に「②身体が震えるほど感動するさま」という意味と「ぞっとするほど面白い」という用例が掲げられています。
校正・校閲者ならぴんとくるでしょうが、「ぞっとしない」という慣用句があり誤解が多いとされています。これは②の意味の逆なのです。「暖かくなったので鍋はぞっとしないね」というと、「怖くない」という意味ではなく「感心しない」という意味になるのです。
もし、インタビューの話者が広辞苑の②の意味でしゃべっていたのだとしたら、誤用とはいえないことになります。
きれいで伝わりやすい日本語のために
しかし「ぞっとした」の使用例を見ると、すべてといっていいくらい恐怖の気持ちです。「ぞっとするほど」となると幅は広がるかもしれませんが、「ぞっとした」では広辞苑の②の意味はほぼ失われているのではないでしょうか。だから「ぐっときた」に直したのは適切な判断だったと今でも思っています。
先日、暖かくなって早速芽が出てきた庭の雑草を取りつつ「この草も一生懸命生きているんだが、ごめん、きれいな庭のためだ」と思っていました、言葉も生き物で、どんどん新しい言葉や使い方が生まれます。それは規制できないと達観する見方もあるでしょうが、私たち校閲はせめて自分の目に届く限りでも、きれいで伝わりやすい日本語のために、その場にふさわしくない言葉の芽を摘んでいるのです。
【岩佐義樹】