読めますか? テーマは〈高野山〉です。
目次
修禅定
しゅぜんじょう
(正解率 76%)精神を統一する宗教的な境地に入ること。略して「修禅」とも。弘法大師空海は816年、和歌山県・高野山に修禅の一院を建立することを許可された。今年は高野山開創1200年目。なお、静岡県伊豆市の修禅寺がある地名は修善寺。
(2015年05月18日)
選択肢と回答割合
しゅうぜんじょう | 18% |
しゅぜんじょう | 76% |
しゅぜんてい | 6% |
三教指帰
さんごうしいき
(正解率 35%)797年成立の空海の仏教書。三教とは儒教、道教、仏教のことで、それぞれを代表する人物の論争を通じて仏教が最上だと示している。定説では空海24歳の時の作だが、司馬遼太郎「空海の風景」では18歳となっている。三教指帰は「聾瞽(ろうこ)指帰」の改訂版といわれ、空海の真筆とされる聾瞽指帰は高野山霊宝館が所蔵する。
(2015年05月19日)
選択肢と回答割合
さんきょうしき | 30% |
さんぎょうしき | 35% |
さんごうしいき | 35% |
吽形
うんぎょう
(正解率 89%)口を結んだ像。口を開いた「阿形」とセットで仁王像を構成する。「阿」は口を開いたとき、「吽」は閉じたときの音声で、「あうんの呼吸」の語で知られる。高野山金剛峯寺の大門にも阿形吽形の仁王像がある。また空海には「吽字義」という著述がある。
(2015年05月20日)
選択肢と回答割合
うんぎょう | 89% |
こうけい | 3% |
ごぎょう | 8% |
摩尼
まに
(正解率 92%)神秘的な宝玉。空海には「摩尼、自ら宝にせず、工人、よく瑩(みが)く」という言葉がある(ちくま学芸文庫「空海コレクション1」より)。また、竜王の脳から出て、望みをかなえるという珠玉のこともいう。漫画のドラゴンボールのようだ。なお、高野山は山の総称で、その一つが摩尼山。
(2015年05月21日)
選択肢と回答割合
まあ | 5% |
まに | 92% |
まれ | 3% |
入定
にゅうじょう
(正解率 70%)高僧の死を遠回しにいう。本来は精神統一のため外界との交渉を断つこと。空海は今も高野山の奥で瞑想(めいそう)しているという信仰があり、食事が毎日供えられている。
(2015年05月22日)
選択肢と回答割合
じゅてい | 26% |
にってい | 4% |
にゅうじょう | 70% |
◇結果とテーマの解説
(2015年05月31日)
この週は「高野山」。「高野山開創1200年」にちなみます。
空海が嵯峨天皇に高野山に「修禅の一院を建立せん」と願い出たのは弘仁7(816)年。おや、1200年は来年では、と一瞬思ってしまいますが、「数え年」のカウントで、816年を起点にしているわけですね。しかし、手元にある「弘法大師著作全集」第3巻(山喜房佛書林)の「嵯峨天皇宛」の字の下には「弘仁七年(八一八)」とあります。(八一八)は(八一六)の誤りでしょう。「弘法にも筆の誤り」ならぬ「弘法本にも数字の誤り」です。
そういえば、司馬遼太郎「空海の風景」(中公文庫)にも数字の誤りがあることを、宮坂宥勝さんは指摘しています(空海ナビゲーションサイト「エンサイクロメディア空海」)。「空海がその最初の著作として十八歳のとき『三教指帰』を書いた」とあるのは24歳の誤りだと。確かに、調べた範囲ではあらゆる文献が24歳と示しています。しかし、版を重ね、指摘があっても修正あるいは注釈がされていないということは、18歳とするのも何らかの根拠があるのでしょうか。それとも一応「小説」なので放置されているのでしょうか。
「吽形」は見出し語で示す辞書が今のところ見当たりません。「阿吽」とセットで用いられるので吽を前に出す必要はないと辞書の編集者たちは考えるのかもしれません。しかし「吽字」は例えば「大辞林」に載っています。それなら、お寺や神社のこま犬でよく目にし、漢字の読みもけっこう知られている「吽形」も採用すべきだと思いますが……。それはともかく空海著「吽字義」はいま角川文庫で読めます。「あうん」の先入観から何となく「吽」は「阿」と対等のように思っていましたが、ここでは「吽」の字義の一つとして「阿」が位置付けられています。解説を読むと「吽」の梵字(ぼんじ)は「大日如来をあらわす種字」とあります。つまりマンダラの中心に描かれるあの仏様です。
「空海コレクション1」(宮坂宥勝監修、ちくま学芸文庫)には、この仏のことを「薄伽梵(ばがぼん)」と記す部分があります。注釈によると「世尊。仏の尊称。バガヴァーンの音写」。おお、赤塚不二夫「天才バカボン」のタイトルの由来?――と思いました。が、赤塚さんは確認を求められると聞こえないふりをしたそうです(毎日新聞5月22日朝刊の映画「天才ヴァカボン」広告特集より)。
その「薄伽梵」が出てくる文章のすぐ前に「摩尼」の字があります。「摩尼、自ら宝にせず、工人、よく瑩(みが)く。いわゆる医王と工人と豈(あに)異人ならんや。我が大師薄伽梵、その人なり」(宝珠はそれ自体が宝にするのではない。職人がこれを磨いて宝にする。名医と職人はどうして違いがあろうか。わが大師である仏はたとえていえば、その名医であり職人でもある)。この摩尼と意味の関連はないようですが、イランで興った「マニ教」は中国に伝わり「摩尼教」に。空海が留学していた唐の居住区の近くにマニ教寺院があり「空海は、当然ながらこのマニ教の寺院をも訪ねたはずである」と司馬さんは「空海の風景」で想像しています。ちなみに唐留学時代の空海を描いた小説には夢枕獏さんの「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」という大作があります。
「入定」に関し、空海はこの世に身をとどめ「定」に入っているという信仰は「空海の風景」でも最後に触れられています。しかし司馬さんは冷徹に「空海その人はただ普通に死んだのであろう」。また記します。空海の言葉として「命已(すで)に涯(かぎり)あり。強ひて留(とど)むべからず」と言ったと。「空海の態度はまことに決然としている」――まるで「これでいいのだ」と言っているような最期だったのかもしれません。