9月24日、東京・田原町の書店「Readin’Writin’ BOOKSTORE」で校正者の牟田都子さんと毎日新聞校閲センターの平山泉(筆者)が対談しました。牟田さんが校正者としての経験や、仕事を通じて考えたことをつづったエッセー集「文にあたる」の刊行を記念したイベントです。校正・校閲の仕事に携わる者同士で共感することはもちろん、書籍と新聞での違いについても語り合いました。もう2カ月以上たって「忘れたころ」になってしまいましたが、ご報告と、答えきれなかったご質問への回答を書きたいと思います。
目次
本を質(ただ)す、新聞を閲(み)る
とりあえず、イベントのタイトルとなった「本を質(ただ)す、新聞を閲(み)る」から話し始めました。ある国語辞典編集者が思いついたもので、書籍の校正では直すというより問いかけたり提案したりするものであることを「質す」で、新聞の校閲ではひたすら調べたり直したりすることを「閲る」で表しています。
「でも、新聞校閲としては、常用漢字表にない読みなので認められない表記なんですけどね」と私。「新聞では決まりがありますからね」と牟田さん。こうした「決まり」があるのが新聞で、書籍では「決まり」なしに自分で判断していかなければならないところに難しさがあります。
新聞では用字用語の決まりがあってさえ、日々言葉に迷うことばかりです。牟田さんも「私たち、迷わなくてよければもうちょっと楽なのよね」と。
そして、牟田さんは、新聞では辞書などに載っていないような新しい言葉が出てきたときにどうするのかと問いかけました。「新しい言葉ばかり使うと若い方は親しみを持ってくれるかもしれないけれど、年配の方を置き去りにすることになりますね」とも想像してくれます。確かに、書籍はわざわざ買って読むものですが、新聞の場合は不特定多数という読者を想定しなければなりません。
そこで、捉え方に世代差があると考えられる「数○」について牟田さんに尋ねました。「数十年」を何年くらいと思うか聞くと、「50はいかないかな、20、30、40くらい」との答え。実は「毎日新聞用語集」には「数」について「四、五前後」と書かれています。「私、(毎日新聞では)だめって言われるんだ!」と牟田さん。
三省堂国語辞典が「三か四、五か六ぐらいの」としながら「最近は、二か三をさすこともある」と注記しているように、若い世代ほど小さい数に捉えるようです。
「正確に」書くこと
関連して、牟田さんが「概数というのは便利なようで、扱いが難しいですね」。「私たち(校正・校閲)が入るとつまびらかにしたい、みたいになってしまうことがあります」。計算が合わないのではないかと著者に尋ねると、はっきりした数字に修正してくることがあるそうです。それはそれでよいのですが、牟田さんは最近、雑誌に「約17年前」という表記を見かけたそうです。もしかしたら、例えば「17年」と書かれていたが計算上16年5カ月前などだったために校正・校閲から尋ねられて「約」とつけたのかもしれない――と牟田さんは想像したわけです。
「私たちが聞くことで、数字をぼやかさずに書き直してくださる方もいるのだけれど、そんなに正確さを追求しなくてよいのかな……とも思います。報道やノンフィクションなら厳密に書きたいということもあるでしょうけれど、エッセーなどでそこまでしなくてもいいですよね。でも、概数の捉え方が書いている人と読んでいる人とで違ってしまうと、通じる話も通じなくなってしまうので困りますね」と、悩む気持ちを吐露しました。
10行足らず調べるのに4日間!
もちろん書籍の校正でも事実確認が欠かせないので、牟田さんは「十行足らずの校正を終えるのに四日間」(著書「文にあたる」より)かかることもあるほど、丹念に調べています。「文にあたる」には「校正の仕事をしていると、物知りに思われることが多いが、そんなことはない」とも書かれており、大きくうなずきながら読みました。優秀な校正・校閲者ほど、知識に頼らず調べるものだと思います。
調べるだけでなく「頭の中だけで想像で読んでいるとわからないことがありますよね」と牟田さん。文芸誌の担当をしていたときに、アクションシーンの描写が難しかったそうです。
牟田さん「相手の首をつかんで、右手で殴りかかってきたから、それをこうよけて……といったことを、(席に座ったまま)もぞもぞしたり、トイレに行って再現してみたり」
平山「わざわざトイレに隠れて?」
牟田さん「さすがに職場では『胸を貸してください』とも言えないし」(笑い)
とにかく「確かめなきゃ」(牟田さん)が、私たちの仕事なのです。
時間があること ないこと
一方で「書籍は時間をかけられるので迷う時間もある。新聞は毎日締め切りが……」と牟田さんが気遣ってくれます。
確かに、新聞ではよく時間が短くて「つらい」と言うわけですが、書籍では時間があることが逆につらいのではないかと牟田さんに問いかけてみました。新聞は毎日締め切り時間があって、そこに向けていつも焦りながら校閲をしなければならないのですが、泣いても笑ってもその時刻で終わりです。
しかし、書籍の校正の場合、「だれも止めてくれませんから。一応約束の日はあって、それは守るのですが、2週間いただいたとして、土日祝日休んで実質10日間で読むのか、圧縮して5日間で読んでしまうのか。手間をかけようと思えば2週間フルに連勤で調べまくることもできてしまう。だれかが強制的に止めてくれないとやっちゃうというところはありますね」と牟田さんは言います。
第三者が見なければ校正・校閲ではない
「毎日ことば」の原稿は部内で書いていますが、「校閲はだれがしているんですか」と牟田さんに尋ねられました。職場の別の人が見るようにしていると説明すると、納得したようにうなずき、「自分で書いたものはいくら丁寧に書いていても校正・校閲はできないですよね。私の本も自分で校正したんですかと聞かれるですが『とんでもない』と」。「書いた者が自分でチェックするのは当たり前ですが、他人の目でないと校正・校閲にはなりませんからね」と私。
そして「他人が見ないと校正・校閲を通ったことにはなりませんよ、というのは大きく掲げたい!」「いいからとにかく見せてください!」と、だれに言いたいんだか、2人で声高に叫びました。
紙面を印刷に回す最後の最後に見出しを変えられ、校閲が一目もその刷りを見ないまま印刷され、誤りが紙面になってしまったことがあります。
書籍でも、校正の後に著者が書き直したり編集者が見出しを変えたりしたが、校正者の目を通すには時間や手間がかかるということで「私の目を通らずに間違いが出てしまうことがあって、それで奥付に『校正・牟田都子』とか書かれると……」と嘆きました。
何度も「つらい」という話になりますが、「じゃあなんで(校正・校閲を)やっているんだ」と尋ねられます。「よく聞かれるんですが、食べていくためですって答えるんです。ほかに(仕事が)あったら喜んでやめます」と牟田さんが断言します。
そんな牟田さんも「校正がなくなってほしくない」思いを語ります。「貢献が数字で測りにくい仕事だから。けれど、必要だと思っていて、黙っていたら減らされるという怖さはあって、でも、なくなってほしくないし、若い人にもやりたいという人がいるのだから、気持ちよく楽しく環境的にもちゃんとしたところで働いてほしい。やっぱり校正はあった方がいいということを言い続けていきたい」
新聞の校閲でも思いは同じです。
若い人に「譲る」
書籍と新聞の違いもありますが、私が組織の中でやっていることと、牟田さんが一人でやっていることとでも大きな違いがありそうです。社内には資料がそろっていますし、周りの校閲記者の知識を頼れて、何でもすぐに相談できます。
牟田さんも以前は出版社にいました。「何十人もいる中で資料もそろっていて、知識も経験も豊富な人たちに教えてもらえるという環境でした。会社を離れて一人でやるというときに、この環境を手放してよいのか悩みました。けれど、10年間お世話になったので、私が会社を離れたら、その席に若い人が入ってきてまた育ててもらえるから、譲らなきゃという思いがありました」。自分が離れて若い人に席を譲るという考えに、私は驚きました。
失敗はするけど
私が「失敗もするのですが、一晩寝て、『どよん』とするのはやめるというふうにしていかないと」と話すと、牟田さんも「私も一緒です。落としてしまった(誤りを見逃した)人がいて、先輩に指摘されたのですが、すぐに『同じ間違いを2度するのはいけないけど、いつまでもどよんとしていると、また見落とすから』とも先輩が言っていたことを覚えています。なぜだか先輩の声のトーンまで思い出せてしまいます。核心的なことというのは今でも覚えていますね」
平山「失敗しないと覚えないので」
牟田さん「もちろん失敗したくないけれど、失敗ほど効果的な勉強はないですね」
平山「妙にすり抜けてしまうと成長しない。1、2年目の若手が失敗しているのを見ると『ラッキー、よしよし』と言ってしまう」
牟田さん「つらいんだけど、この年になってもするから……」
平山「そうそう、しちゃいます」
牟田さん「なんででしょうね。どんなベテランでも」
――と、うなずきながら話しているうちに、もう時間がなくなってしまいました。
行き当たりばったりのとりとめのない話になってしまいましたが、会話を通じて、牟田さんの校正への思いが伝わってきました。単に「食べていくため」というのもうそではないのでしょうけれど、それだけでこの仕事にこれほど誠実に向き合えるでしょうか。
書籍と新聞と、「場」は違いますが、共に校正・校閲の仕事に向き合う「同志」として、これからも手を携えていきたいという思いを強くしました。
ご質問に答えます
チャットでいただいたご質問に答えきれていなかったので、今、私で答えられるだけ書いてみます。
校正・校閲をしているという方が、チャットに「疑心暗鬼がひどく、何度も読み返して数行に対して何十分もかかってしまうことも」と書いておられました。私も、疑心暗鬼というほどでなくても、数行、いやたった1行に何十分もかかるといったことはあります。新聞校閲では時間が少ないので一つの原稿、一つの箇所にばかり時間をかけていられないのですが、とりあえず全くの誤りでなければ置いておいて、後で時間ができたらまた考える――ということもあります。その場合、自分の頭の中では限界があるので、近くにいる人に相談したりします。対談の中でも話しましたが、一人で仕事をしている方はなかなかそれができないのでつらいだろうと思います。
どういう点で「迷う」のかという質問もありました。「終息」か「収束」か「越える」か「超える」かといった書き分けや、対談の中でも話題にした「笑顔を浮かべる」を「笑みを浮かべる」に直すかどうか――などなど、迷う場面は多々あります。中には「筆者はどういうつもりで書いたのだろう」と意図を測りかねることもあり、そうした場合は遠慮なく出稿部(政治部、外信部、社会部など原稿を出す部署)に問い合わせます。書籍より新聞の方が問い合わせをしやすいと思います。
デジタル化や活字離れが進んでいる昨今にあって「校正・校閲の未来は」という問いかけもありました。活字離れは言われますが、むしろ今はだれでも気軽に自分で書いて発信できる時代です。そこに今は校正・校閲が入っていなくても、今後必要とされることもあるかもしれません。個人のブログでも、不特定多数の目に触れるので誤りのないものにしたいと考え、「校正・校閲の技術を身につけたい」と思う人もいるかもしれません。また、人工知能(AI)が導入されたらどうなるかと尋ねられることもよくあります。AIが単純な用字用語直しをしてくれて手間が減る、AIに確かな情報源を教えてもらって調べやすくなるといったことは進むかなと思いますが、その分、人間の校閲記者の目や勘の働きへの期待が増すようにも想像しています。
記者に疑問をぶつけても素直に応じてくれないという経験があるかという質問もありました。あります。何度もあります。記者の側からすれば、原稿にけちをつけられたような気持ちになってしまうこともあるでしょう。それでも、信頼を得ていけば、話が通じやすくなるもので、そこも努力しています。若い校閲記者が話を聞いてもらえず途方に暮れることもあるといい、そんなときは「私個人が言っているのではない。読者のために言っているのだ。私には多くの読者がついている」という気持ちで立ち向かえばいいと話しています。記者と意見の違いはあっても、いいものを読者に届けたいということは同じはずなので、わかり合えるといいなと思っています。
また、私の職場では使ったゲラを、伝票刺しを大きくしたようなもの(五寸くぎに刺します)に、どんどん刺していき、翌朝丸めて1週間保存するのですが、他社校閲部経験のある方が視聴しながら「会社によって流儀が違うんだなあ」という感想をチャットに書いてくださいました。こんなちょっとしたことも視聴者の方と「会話」できたらよかったなあと思います。
会話といえば、対談で校閲記者をゴールキーパーに例えて話したところ、チャット上で「校閲記者=ゴールキーパー説同感です」「私も同感です」といった視聴者同士の会話もあり、楽しく読ませていただきました。「私も校正会社に登録して仕事をいただいています。共に頑張りましょう」「頑張りましょう!」や「校閲は30年たっても、日々勉強です」「私も日々修業だと感じています」と励まし合っています。このイベントが交流の場になっていたならうれしいことです。
チャットのご感想でも「地方で校正していると周りに『同志』がおらず、校正校閲の悩みをシェアできる場がほしいと切実に思います」という声がありました。
このサイト「毎日ことば」で発信したり、やりとりしたりできれば「場」の一つになるでしょうか。私自身も多くの校正・校閲者とつながりを持てるようになりたいと思います。
【平山泉】