「広辞苑」の編集者、平木靖成さんの講演が自宅近くであったので行ってきました。「広辞苑第6版に『ウルトラマン』を入れたが『仮面ライダー』を載せなかったのはなぜか」などという楽しいお話が満載の1時間でした。中でも最も興味深かったのは「敷居が高い」という慣用句についての話です。
2008年度の文化庁「国語に関する世論調査」で「相手に不義理などをしてしまい、行きにくい」が「本来の用法」とされたことをご存じの方も多いと思います。この影響か、「高級過ぎたり、上品過ぎたりして、入りにくい」という意味で使うのを「誤用」とする向きも、文化庁は誤用という言葉を使っていないにもかかわらず、多く見られます。
しかし、平木さんによると、哲学者の西田幾多郎が1942年のエッセーで、別に不義理をしたわけではない文脈で使っているそうです。そこで講演後「青空文庫」で検索したところ、さらに古い35年の寺田寅彦の随筆中、子供が「平生は行ったこともない敷居の高い家の玄関をでもかまわず正面からおとずれて」という部分が見つかりました。これも不義理どころか、その子と何の関係もない家の話です。つまり「本来ではない」用法は少なくとも80年の歴史があるということです。
そもそも青空文庫で調べた限りでは「敷居が高い」という比喩そのものがそれほど多くありません。ほとんどの例が建物の一部としての「敷居」です。「本来の用法」は、古くは09(明治42)年の岩野泡鳴「耽溺」に「初めは井筒屋のお得意であったが、借金が嵩(かさ)んで敷居が高くなる」などに見られますが、数はわずかです。面白いのは夏目漱石「彼岸過迄」(12年)の「愛想づかしをたとい一句でも口にして、自分と田口の敷居を高くするはずではなかった」。「不義理など」の点では「本来の用法」に近いけれど、「行きにくい」という使い方と微妙にずれています。
してみると、昔は少ないなりにいろんな用法があったのに、たまたま辞書編者らが「不義理などをして」という使い方のみに注目して語釈を書いただけなのかもしれません。私見では、例えば不肖の息子に父親が「この家の敷居はまたがせないぞ」などと言うせりふが「敷居が高い=不義理」というイメージ固定化につながったのではないかと思っていますが、いかがでしょう。
ちなみに三省堂国語辞典では第6版(2008年)で「〔あやまって〕〔高級な店などに〕気軽にはいれない」と②の意味にあったのが、第7版(14年)では「②近寄りにくい。『庶民にとってお役所は―』」となりました。「あやまって」が取れています。(写真、赤線引用者)
もっとも、その他の辞書では今のところ一様に「不義理」の意しか認めていないようなので、原稿中に②などの使い方があれば何らかの指摘はした方がよいともいえるでしょう。「気軽に行きにくい」などの言い換えも比較的容易なので、使わないに越したことはないという判断もありえます。しかし鬼の首を取ったように「誤用」と言い切るのは避けるべきではないでしょうか。
ともあれ広辞苑は改訂作業中だそうで、第7版でどういう記述になるかは分かりませんが、「高級すぎて敷居が高い店」などの用法が徐々に認められていく可能性はあります。今後出る他の辞書の記述も含め、注目していきたいと思います。
【岩佐義樹】