川添愛さんの本「パンチラインの言語学」にちょっと「校閲」の人への言及があります。この本で、漫画「タッチ」の南ちゃんのセリフについて考察されますが、「恐ろしい子」という文の元ネタに気づく校閲者には脱帽しました。

川添愛さんの「パンチラインの言語学」(朝日新聞出版、元はwebTRIPPERでの連載)はすこぶる楽しい本です。
目次
名ゼリフ×言語学
サブカルチャーの名作の名ゼリフが「エンタメ8割、言語学2割」の配合で紹介されていて、私が愛するアニメ「機動戦士ガンダム」などのセリフがばんばん出てくるだけでもツボにはまります。例えば島本和彦さんの漫画「吼えろペン」のセリフの一つはこれ。
人間、得をしようと欲をみせると失敗するが――損をしようとハラをくくれば……損はするが失敗はしない!!
こんなに笑える至言はそうあるものではありません。それらに「2割」くらいの言語学的分析が加えられるのですから、面白くないはずがありません。
さて、校閲としてパンチを食らわされたような気分になった一節があったのでご紹介します。
本当に恐ろしい校閲
あだち充さんの「タッチ」の後で美内すずえさんの「ガラスの仮面」についての章があります。その冒頭にいきなり「校閲」が顔を出すのです。
前回の連載が公開される前、私が「南ちゃんは本当に恐ろしい子である」と書いた部分について、校閲の方から「(『ガラスの仮面』での)原文は『おそろしい子!』のようです」との参考情報をいただいた。私も当然『ガラスの仮面』を意識してそのように書いたわけだが、こんな小ネタにもかかわらず、元ネタにまで当たってくださったことに驚いた。
その「前回」の該当部分はこうなっていました。
「ウソ」のような否定表現は、何を否定するのかがしばしば曖昧になるが、その曖昧さを利用して達也を翻弄(ほんろう)する南ちゃんは本当に恐ろしい子である。
この一文はもちろん、章全体を見ても「ガラスの仮面」との関連をうかがわせる部分はありません。にもかかわらず、連載時の原稿を校閲した人は、この部分が「ガラスの仮面」のセリフを下敷きにしたものだと直感し、原文にあたったことになります。おそろしい人……と衝撃を受けました。
それとともにダブルパンチを食らってくらっとなったのは、川添さんが「私も当然『ガラスの仮面』を意識してそのように書いたわけだが」と書く「当然」の2文字です。つまり川添さんにとって、「恐ろしい子」と書いただけで「ガラスの仮面」を連想させることが前提にあった、それが校閲の人とのコモンセンスになっていたということでしょう。
「ガンダム」シリーズに登場するニュータイプ(「エスパーかもしれない」人)が言葉を超えて分かり合えているのを見るような気がしました。それに引きかえオールドメディアのオールドタイプたる私は「ガラスの仮面」も読んでいたのに全く反応できませんでした。ちいっ。
「北斗の拳」のラオウ最期のセリフは
考えてみると、日本の古典文学はこのように「分かる人には分かる」という引用のオンパレードですね。「枕草子」では、中宮定子が「少納言よ、香炉峰の雪いかならん」と言っただけで清少納言は格子とすだれを上げさせます。これは白居易の詩句を踏まえた、行為による引用で、定子にはすぐ理解でき笑います。ほほ笑ましいコンビネーションです。
ただ、あまり関心がない人には「ざれごと」のように思われるかもしれません。そもそも引用元を全く知らない人にとって、ひっかかることもなく置いて行かれるでしょう。
それで思い出したことがあります。「パンチラインの言語学」には「わが生涯に一片の悔いなし!!」という、漫画「北斗の拳」の名ゼリフが取り上げられます。それと同じセリフを元ネタにした毎日新聞の見出しに物言いが付いたことがあったのです。以下、2019年3月10日号のサンデー毎日「校閲至極」(筆者は岩佐義樹)から引用します。

「一片の悔いなし」――横綱・稀勢の里関(現・荒磯親方)の引退表明の記者会見を報じる『毎日新聞』東京本社版の大見出しです。
これに対し、掲載後の記事などについて議論する社内の会議で違和感の表明がありました。「一片の悔いもない」と「も」が入るのが正しい文法であり、しかも本人は「土俵人生において一片の悔いもございません」と述べたのに、「も」のない見出しになったのはいかがなものか、と。
実はこれは人気漫画『北斗の拳』の主人公の強敵であるラオウが死ぬときのせりふ「我が生涯に一片の悔いなし!!」からきています。彼はラオウのファンで、その絵を用いた化粧まわしを贈られたこともありました。
見出しに注文を付けた人は、それを分かったうえで、それでも元となったせりふを知らない人も多いので、正しい日本語でという主張でした。見出しを付けた側としては、ラオウのせりふ通りであり、「も」がなくても思いは通じるのではないかと釈明しました。
別の意見として、「一片の悔いなし」を見出しに取るなら、そのネタ元である漫画への言及が記事に必要だったのではないかという声もありました。
私もその漫画を読んでいましたが、ラオウ最期のせりふは忘れていました。名言中の名言と言う人もいたものの、分かる人には分かる、分からない人には違和感を覚えさせる結果の見出しになったことは否めません。
このように、見出しに何らかの元ネタがある場合、付ける側は「分かってくれる。それで、にやりとしてもらったら見出しとして成功」と判断して世に出すのですが、「分かってくれなくても、それはそれでやむを得ない」と心のどこかで思っているかもしれません。
分かる人には分かるセリフがどこかに
指摘されたように、日本語としては「一片の悔い『も』ない」もしくは「一片『も』悔いない」という方が自然です。「一片の悔いなし」としたところにどういう効果があるのか、言語学者としての見解を川添さんに聞いてみたいところです。
それはともかく、「パンチラインの言語学」の「恐ろしい子」の元ネタが私には分からなかったように、世の中にはさりげなく何かの名作のセリフが含まれていることがけっこう多いのでしょう。平安時代の貴族や女官は中国の詩などの知識が必須だったように、今はサブカルチャーの話題作が教養として必要なのかもしれません。
【岩佐義樹】

