新国立競技場問題で何度か名前を目にした建築家、ザハ・ハディド氏。イラク出身で現在は英国に在住している、気鋭の女性建築家です。しかし彼女の名前が、記事によって「ザハ氏」「ハディド氏」とばらついていたことにお気づきでしょうか。
この件では、新聞協会の用語懇談会でも「混在している」と回答する社が多く、明快な結論は出なかったようです。それもあってか、学生時代にアラビア語をかじっていた筆者も、「略すとすれば『ザハ』と『ハディド』のどちらが望ましいか?」という相談を受けました。率直に言って、なかなか答えづらい質問です。ただし便宜的な結論を出すだけなら、英語圏のメディアでは”Zaha”ではなく”(Ms.)Hadid”を主語にしていることが多いので、それに合わせて「ハディド氏」としておく方が無難……ということになるでしょう。
では、一体なぜ「答えづらい」のか?と申しますと、ザハ・ハディド氏の名前がアラビア語に由来するためです。もともとアラビア語には「ファミリーネーム(姓)」に相当する概念がありません。一般的には「本人の名、父親の名、祖父の名」を順に並べるので[1]、これにのっとれば「ザハ氏」とするのが妥当と思えます。
しかしアラビア語版のウィキペディアを参照してみますと、ザハ・ハディド氏の父親は「ムハンマド・ハディド」、さらにその父親は「ハッジ・フセイン・ハディド[2]」となっています。すなわち、その由来や経緯はさておくとして、「ハディド」はファミリーネームのように扱われているのだと考えてよさそうです。
上記のように、何が「本人の名前」に該当するのか?を巡って判断に苦しむ例は、他にもあります。アラビア語圏では「アブー……」という名前[3]をよく見かけますが、これは直訳すれば「……の父」という意味です。子供が生まれた場合、男親が子の名前に「アブー」を付けて名乗ることがありますが、本来の名前は別にあるわけです。ただし、例えば先祖に「アブー……」と名乗っていた人物がいる等の理由で、実質的なファミリーネームとなっていることもあるため、話が込み入ってきます。
先日、本紙のコラムで、シリア出身でトルコに滞在している難民の親子にインタビューした話が載っていました。ここでは父親の名を「アブラファト」、息子の名前を「ラファト」としていましたが、これは単に「ラファトの父」と名乗っていただけ、という可能性もありそうに感じます。とはいえ、慌ただしい現場、しかも相手は難しい状況にある民間人となれば、致し方ないかもしれません。
別の例では、昨年末にパレスチナ自治区で、自治政府高官が小競り合いの後に死亡した事件を報じる際、この高官の名が本紙では「ジアド・アブエイン」となっていました。試みにウェブ検索でアラビア語の報道を幾つか見てみたところ、なるべく元の発音に則してカタカナに置き換えれば「ジヤード・アブーアイン」という表記です。さらにアラビア語版のウィキペディアで略歴を見ると、名前は「ジヤード・ムハンマド・アフマド・アブーアイン」となっています。以上を踏まえると、定型に当てはめれば本人が「ジヤード」、父が「ムハンマド」、祖父が「アフマド」という名で、「アブーアイン(アブエイン)」はファミリーネームのように扱われているのだろう、と推測できます。
筆者が最近気になっているのは、過激派組織「イスラム国」(IS)のアブバクル・バグダディ指導者です。日本の公安調査庁のホームページでは、本名を「イブラヒーム・アッワード・イブラヒーム・アリー・アル・バドリー・アル・サマッライ」としています。それがなぜ「アブバクル」を名乗っているのか?については、初代の正統カリフ[4]である「アブーバクル」に自らをなぞらえているのではないか、との指摘があります。付言すれば「バグダディ」は「バグダッド出身の」という意味なので、「アブバクル・バグダディ」という呼び名の中に、本名につながる要素は全くないわけです。
ひところ、「『イスラム国』という呼び方は、他のイスラム教国や一般のムスリムに対して迷惑なのではないか」という趣旨の議論が持ち上がりました。しかし、「日本……」と冠する団体が全て日本の代表というわけではないのと同様、「『イスラム国』を名乗っているからイスラムの代表である」という理屈は通らないでしょうし、かの集団が「イスラム」を名乗ること自体を問題視するのであれば、指導者が「アブーバクル」を自称している点は問題ないのか?など、筆者としては釈然としない思いがいまだにあります。
以上、長々と書いてまいりましたが、上で挙げたような例の他にも、異なる言語圏・文化圏の人名をどう表記すべきかが問題になることは多々あります。名前は本人の自己認識や自尊心とも直結するだけに、第三者が軽々に決めつけてしまうのは避けたい半面、単に「他社の表記に合わせればよし」という対応に終始するわけにもいきません。悩みの尽きないところです。
[1]このあたりの事情に関する日本語の資料としては、日本貿易振興機構リヤド事務所編「アラブ人名の由来と正しい呼び方」が分かりやすいです。[2]「ハッジ」はメッカ巡礼を果たした人物への敬称ですので、本人の名前は「フセイン」でしょう。[3]「アブ……」と長音符号なしで表記されていることも多いです。なお、「アブドル……」で始まる名前も頻出しますが、これは「神のしもべ」を意味する「アブドッラー」、およびそこから派生した形なので、カタカナでの字面は似ていても成り立ちが異なります。[4]一般名詞としては「後継者、代理人」という意味ですが、この場合は「神の使徒(=預言者ムハンマド)の後継者」を指し、イスラム世界における最高指導者に対する称号です。