「新明解国語辞典」の第8版が発売された11月19日、私は職場を抜け出していそいそと東京・神保町の三省堂書店に向かいました。入り口近くのレジの前に既に目当ての辞書が多分50冊は平積みになっていました。さすが、「日本で一番売れている国語辞典」という触れ込みだけのことはあります。他の辞書でこれだけ平積みにされるのは「広辞苑」くらいではないでしょうか。
表紙が赤、白、青といろいろなバージョンが並んでいましたが、やはり新明解といえば赤でしょうと買った後で開くと、「文字が小さすぎる!」。小型版でした。老眼にはつらいのですが、かさばらない分、かばんに入れて持ち運びすることにしました。
以来毎日、職場でも自宅でも通勤電車でも、ことあるごとに引いて、いや、読んでいます。その過程で痛感しました。
――この辞書は仕事には向かない。特に、集中力のない自分にとっては仕事の邪魔になる。寄り道を誘惑してくる悪魔的な辞書だ。
目次
「猫耳」の意味に目がくぎ付け
どんな誘惑でしょう。普通、辞書を引くときは目指す言葉が見つかればそれで当面の役に立ちます。しかしその言葉の周辺に気になる言葉があると、集中力のない人間はついそちらの方が気になってしまいます。例えばこんな言葉が何食わぬ顔で並んでいます。
【猫耳】。なんと、国語辞典にこんな言葉が……秋葉原か晴海かどこかのコスプレーヤーが霞が関の官庁街に出現したみたいな衝撃。ついつい仕事と関係なく寄り道、いや語釈を見ると――
耳あかが柔らかで、近づくと少しにおう状態(の耳)
とあり、ニャンじゃーこりゃあ?と目がくぎ付け。「広辞苑」を引いてもないし、日本最大の国語辞典「日本国語大辞典」にも見当たりません。
インターネットで調べると、耳あかの説明で「湿性耳垢は、アメミミ、ヤニミミ、ジュルミミ、ネコミミとも呼ばれる、褐色でアメ状の湿った耳垢のことで、西欧人では約9割がこの湿性耳垢の持ち主」とありました。益体もないことを調べさせて「あれ、俺は本当は何を調べようとしてたんだっけ」と覚醒するまで無駄な時間を過ごさせる。まことに恐ろしい辞書です。
ちなみに、「猫」を使った言葉の連なりをねめ回すと、「猫だまし」「猫まんま」が載っていません。何でだろう?と考えたりして、ちっとも仕事がはかどりません。
辞書には何が入っているかだけではなく、何が入っていないかを調べることで、その辞書の個性が見えてきます。「岩波国語辞典」にはけっこう猫愛があふれているのですが、新明解国語辞典はちょっとそっけないようです。
さて、何が書かれていないかという視点で見れば新明解国語辞典の【願わくは】に着目。
8版でも「願わくば」という表記を認めていません。「よしよし、やっぱり『願うことは』ということだからね」とうなずきました。岩波国語辞典では「願わくば」を付記していますが。
似たようなことは【半端】にも見られます。
「運用」欄に
口頭語では、「半端じゃない」の形で、そのことの程度が並大抵ではない、の意で用いられる。例、「あいつの怒りようは半端じゃない」
「半端ない」なんて、この辞書では意地でも認めないぞ、という気概を言外に感じます。
「百姓読み」「優性遺伝」にきっぱり引導
一方で、差別的表現の側面から思い切って変更したと思われる語もあります。
「百姓読み」ってご存じですか。広辞苑では「(百姓は漢字を正しく読めないものとみなしていう語)漢字を旁(つくり)または偏によって、我流に読むこと。絢爛(けんらん)を『じゅんらん』、懶惰を『らいだ』と読む類」とあります。お百姓さんに失礼な言葉でしょう。新明解国語辞典でこれを引くと【類推読み】を引くように矢印で誘導されます。語釈を見ると
漢字の読み方で、正しい音、慣用の音以外の誤った読み方。字の旁(ツクリ)から類推することが多い。〔以前は「百姓読み」と言われていた〕
確かに「類推読み」の方がはるかに分かりやすく好ましいですね。とはいえ大正時代からとされる用語に引導を渡すに際してはエネルギーを要したのではないでしょうか。英断です。
【優性】【劣性】も似たケースです。
用例として「優性遺伝」「劣性遺伝」が7版まであったのが今回なくなりました。「顕性」に誘導され、「顕性」を引き直すと「顕性遺伝」と用例が移っています。
旧称、「優性」
ときっぱり。確かに日本遺伝学会は2017年に優性→顕性、劣性→潜性と用語を変更しましたが、いまだに優性(劣性)遺伝は広く使われており、例えば19年改訂の岩波国語辞典第8版でも用例で残しています。その中でのこの潔さは貴重です。
しかし残念なのは「色覚」の用例「色覚異常」が残っていること。「色盲」の語釈も「先天的な目の欠陥」とあります。日本遺伝学会の提唱する「色覚多様性」はちょっと使いにくいとは思いますが、せめて「異常」や「欠陥」という言葉はなくしてほしいと思いました。
「真面目」な「優等生」にひがみでもあるの?
新明解国語辞典といえば、なんといっても語釈のユニークさが話題になります。
「優性」の近くにある【優等生】はすごいですよ。
成績が優等な生徒。〔模範生の意味にも、がり勉をするだけで人間的におもしろみの無い者の意にも用いられる〕
【真面目】も似たような皮肉が。
真面目一方の人〔まじめなだけで、冗談などを解さない(つきあって、おもしろみの無い)人〕
ちょっとちょっと、真面目な優等生に何かひがみでもあるの?と突っ込みたくなります。
そして政治状況へのいらだちが感じられる用例も異彩を放ちます。
しかし選挙をやってみると、あれほどあきれた行状が天下に知れわたったのに、それが又々十何万票もとったりしている
又も発覚した政治家のスキャンダル
選挙が終わってみれば又もや与党の勝利
【万能】の用例に
政治の世界まで金が万能の世の中になってしまった
しつこいですねえ。以上は7版までにもあった用例ですが、今回の8版では【不感症】にこんな例が。
繰り返される閣僚の不祥事にすっかり不感症になる
いや、不感症になったらいかんでしょう。そういうメッセージなのでしょうか。
「一言多い」辞書に自分も一言言いたくなる
時事用語で言えば、「ガーファ(GAFA)=グーグル社・アマゾン社・フェイスブック社・アップル社の総称」「ピザ(PISA)=学習到達度テスト」などが入っていて「おおっ」と思いましたが、こういうのは他にも調べる手段があります。仕事中に辞書でこれらを調べようと思うと、その周辺にいくらでも魅惑的な語や語釈が「ねえねえ、ちょっと寄っていきなさいよ」と底なし沼に誘っているので、やはり集中力のない人にはおすすめできません。
「井上ひさしの読書眼鏡」(中公文庫)に「不眠症には辞書が効く」という短いエッセーがありますが、新明解国語辞典に関しては下手をすると止まらなくなってかえって寝不足になる危険もあります。ちなみに井上ひさしさんはこの辞書を愛用されていたそうですが、先日行った展覧会での蔵書の展示では、語釈に付箋で注文を付けていた様子もうかがい知れました。
引いて「はいそうですか」では終わらず、「一言多い」記述に自分も何か言いたくなる、それが新明解国語辞典の最大の特色と思います。
【岩佐義樹】
新明解国語辞典の編集者に聞く(全6回)
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