「客観視」という表現についてどう感じるか、うかがいました。
目次
直したい人は1割のみ
自分を「客観視する」――この使い方、どうですか? |
問題ない 50.2% |
少し気になるが、許容範囲 39.7% |
違和感がある。「客観する」の方がよい 10.1% |
「問題ない」「許容範囲だ」とする人が計9割に達しました。以前「楽観視」について質問した際は、「楽観視」を許容範囲だとする人は半数を若干上回る程度でした。「楽観視」よりも重複感が意識されない「客観視」は、それ以上に認められる傾向にあるといえるでしょう。
「観」は「考える」こと
まずは「楽観」から考察してみます。日本国語大辞典2版によると「①楽しみ見ること。②すべて物事の成り行きを、よい方に考えて心配しないこと」。さらに「楽観視」の項目を立てて「物事の成り行きがよい方にむかうとみなすこと。楽観的に考えること」としています。「楽観」=「楽しみ見る」と考えて、毎日新聞では「楽観視」を重複表現としていますが、「楽観視」=「楽観的な立場から考える」のようにみなせば、ダブり感はそこまで感じられなくなります。
次に「客観」を調べてみました。三省堂現代新国語辞典6版によると「<名・他動サ変>主観にとらわれずに、第三者のような冷静な目で、見たり考えたりすること。だれにとっても疑う余地のないような、ものごとの見方・考え方。客観視」。こちらも「客観的な立場から考える」とすれば許容できそうです。
また「客観」には「<名>[哲学で]主観によって認識される対象」(同辞典)という意味もあり、「主観」の対義語として、「主体から見た対象」そのものを指すことがあります。「客観」が一つの用語として意識されるため、その後に「視」の文字が続いたとしても、「見る」の意味の重複感が薄くなるのかもしれません。
「客観」はもう「動詞にしない」とする辞書も
一方、岩波国語辞典8版を引いてみると、「客観」の項目に「以前はサ変動詞にもした」との説明が。その前の7新版には当該部分はないため、8版で新たに加えられた記述のようです。「以前は」ということは、現在ではサ変動詞にはしないことを改訂で反映させたと考えられます。「客観」は動詞としては使われず、その代わりに「客観視」が用いられているのだとしたら、単純に「客観視する→客観する」と直すわけにはいかないでしょう。
実際に毎日新聞の記事データベース(東京本社版)で検索してみると、「客観」を動詞として使用している記事はわずか5件。一方の客観視は286件ありました。これだけ開きがあることを考えても、「客観視」は一つの表現として認められていると言ってもよさそうです。
(2020年12月18日)
「客観視する」。この表現を目にするたびにいつも悩んでしまいます。というのも、毎日新聞の用語集には「楽観視する→楽観する(重複)」という記述があるから。「観」「視」はともに「見る」ことを表すため、「楽観視する」は重複表現になってしまうというわけです。うーん、同じように考えるなら「客観視する」も重複表現になるのだろうか……。
「楽観視する」については以前、アンケートで伺っています(参考記事)。このときは「楽観する」が「楽観視する」を上回りましたが、「楽観視する」の方がよいとした人も3割程度あり、ある程度浸透した言い方であることがうかがえました。
ただ、「明るく気楽に見る」という意味の「楽観」と比べると、「客観」は「見る」の重複をさほど感じない気もします。もちろん、第三者的な立場から「見る」ことが「客観」なのですが、「主体の意識の対象」自体を指すこともあります。また実際に「客観する」とはあまり言わないことから、「楽観視→楽観」の場合と同様に扱って済むとは言えないでしょう。
他社の用語集や辞書では「楽観視」を認める流れも出てきています。だとしたら「客観視」はなおのこと許容されるはずです。「楽観視」に限らず「炎天下のもと」「各国ごと」「満天の星空」など、校閲記者は重複表現に日々目を光らせています。「客観視」が引っかかるのは、意味や漢字の重複を常に意識しているゆえの「職業病」なのか、はたまたみなさんも同様なのか、伺ってみようと思います。
(2020年11月30日)