いつ起こるか分からないものについて「迎える」という表現を使うことについて伺いました。
目次
「書き換えたい」人が8割弱占める
防災対策が進まないまま「震災を迎えた」――この書き方、どうですか? |
違和感はない 4.3% |
違和感があるが、許容範囲 18.2% |
問題があり、書き換えたい 77.5% |
「問題があり、書き換えたい」との回答が8割近くと、圧倒的な結果となりました。「違和感がある」との回答も合わせるとおよそ95%もの方が違和感を覚えたようです。多数の方に伺うアンケートでここまで差が出るとは思わず、やや驚いています。
「迎える」には「能動的な印象」との声も
いただいたコメントでは、「迎える、という言葉にはやや能動的な印象がある」など、出題者と同様「迎える」との言葉に対し「受け入れる」という印象を持つ人が複数見受けられました。一方で「備えるべきことが十分にできないままその日が来てしまったと考えれば違和感はない」という意見もありました。確かに、日本では震災への備えは欠かせないものであるし、いつかは分からなくとも必ず大地震は起こるでしょう。この意見には非常に納得しました。
例えば警鐘を鳴らす意図で「十分な防災対策が取られないまま、我々は震災の日を迎えることになるだろう」と書かれた文であればどうでしょうか。個人的には、未来のことに対して使用するのであればそこまで違和感はなく、前後の内容にもよりますがそのままにすると思います。
新聞としては他の表現を求めたい
ではなぜ「福祉避難所は阪神大震災で必要性が認識されたものの、自治体によって指定にばらつきがある中で、東日本大震災を迎えた」という原稿には違和感があったのでしょうか。
辞書で「迎える」を引くと、「ある時期を目前にする」意味の他に、「客を迎える」のように待ち設ける意味合いも含んでおり、期待のような感情を帯びた表現と受け取られる可能性もあります。
自身のことについて話すなど個人的な文なら、それでも差し支えないと思いますが、不特定多数が読む新聞という媒体であること、防災対策という一般的な話であることなどから、校閲としては被災した人が読んだときにどう感じるかについても想像し、より適切な表現を求めるべきだと考えています。
想像を巡らすことも校閲の役割
この解説を書いていて思い出したことがあります。出題者が入社試験を受けたのは、東日本大震災のあった年でした。その際に面接で「震災の記事での『がれき』という言葉に対して、被災者の方から『思い出のある家、物に対して、がれきという言葉を使ってほしくない』との声があったらどうするか」と聞かれました。その時なりに精いっぱい考えて回答しましたが、質問されるまではそのような発想すらなかったというのが正直なところです。しかし、それを考えられるようになるということが「読者の側に立って仕事をできる」校閲の役割なのだろうとも感じました。
いま、どこまで想像を巡らせることができるようになっているのかはわかりませんが、いち読者であるという意識を忘れずに持っていたいです。
(2020年11月27日)
今回の質問の元になった原稿の記述は、「福祉避難所は阪神大震災で必要性が認識されたものの、自治体によって指定にばらつきがある中で、東日本大震災を迎えた」というものでした。「迎えた」では受け入れるニュアンスがあると感じ、「震災が起こった」のほうがよいのではないかと考えて修正してもらいました。
「迎えた」は、大会や式典のようにあらかじめ日取りが決まっているイベントなどを指すのに使用するほうがしっくりくると思っています。そういった意識もあって、多くは予期することができない「災害」に対して使用するのにはなおさら抵抗を覚えました。みなさんはどのように受け取ったでしょうか。
(2020年11月09日)