先日、「博士と狂人」という映画の試写会に行ってきました。案内のはがきが届いたからですが、なぜ一校閲記者に?と驚きました。学芸部をはじめ取材記者たちに届くことはよくあるのですが、校閲記者にということは普通ないのです。
「博士と狂人」はオックスフォード英語大辞典の誕生をめぐる実話をもとにした作品です(原作の日本語版は早川書房刊)。
広辞苑の編集者、平木靖成さんにも案内が来ていたと聞いて、「辞書」に関係する者として案内が来たのだと理解しました。校閲にとって切っても切れない関係である国語辞典について、このサイトで発信したりしていたからなのでしょう。
案内を送ってきてくださったのはパブリシスト(広報担当者)の梶谷由里さんでした。先日の三省堂国語辞典編集委員、飯間浩明さんとの対談講座にも足を運んでくださり、映画のために国語辞典についても知見を広げようという姿勢に驚きました。
映画の評論のようなことは何も言えませんが、辞書を日々身近に使っている者として感じたところはあります。
1928年の第1版刊行までに70年以上もの年月を費やしたオックスフォード英語大辞典。その誕生の物語はまさに「小説よりも奇なり」です。いまや世界中の人に権威ある辞書として知られる“OED”が、「貧しい家に生まれ学士号を持たない学者マレー」と、「エリートながら精神を病んだアメリカ人の元軍医マイナー」によって生み出されたものとは……。
オックスフォード大学が、学士号もないマレーに辞書づくりを任せるということだけでも曲折がありました。議論の過程で「辞書には正しい言葉、美しい言葉を載せるべきだ」と主張する者がいました。「うわ、やっぱりこういうこと言う人はいるよね」と思いましたが、「いや、辞書には新しい言葉も俗語もなければならない」という意見が勝ちます。この時代に辞書をつくろうとする人たちの気概に胸を打たれました。
マレーが用例を一般市民から募集するという方法を取ったということにも驚きました。殺人を犯して精神科病院に収容されているマイナーは、一冊の本に挟まれたマレーの依頼文を読み、用例採集に没頭するようになりました。そしてもたらされた大量の用例によって、マレーの辞書づくりは飛躍的に進みます。
用例をカードに書いて整理していく様子を見て、東京・北八王子にある三省堂の倉庫で「見坊カード」を見せていただいたことを思い出しました。三省堂国語辞典の生みの親、見坊豪紀が用例を採集して書き留めたカードで、人間が一生かけても集めて書けるとは思えない145万ものカードを目の当たりにして圧倒されました。
映画では、用例が集まってすぐ完成のような印象で、文を練ったり細かいチェックをしたりといった地味な作業はあまり描かれませんでした。校正作業はどれだけ大変だっただろうと想像するだけで頭がくらくらします。
校正という言葉は出てきました。それは1巻目が刊行された後、当然入っているべき語が抜け落ちていたことが判明してマレーが非難される場面です。「校正刷りを回さなかったから」とマレーをかばう人がいましたが、「何人で校正しているんだろう」「刊行が遅れていると責められていたから校正に時間をかけさせてくれなかったのでは」「語が抜ける以外にも、スペルの誤りなどもあったろうに……」など、いろいろと気になります。
マレーとマイナー、この2人は辞書に取りつかれたように人生をささげます。日本の辞書をめぐっては例えば「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」に見坊、山田忠雄の2人の辞書編さん者が描かれています。これを読んだときも2人が辞書に取りつかれたように見えました。こうまで、人一人の人生を懸けてまでしないと、辞書を生み出すことはできないということなのでしょうか。
終わってから、同じく試写会に来ていた飯間さん、平木さんと少しだけ話しました。大辞林編集部の山本康一さんも来ていたようで、辞書関係者の同窓会のようです。現に辞書づくりをしている方のこの映画を見ての思いはどのようなものだったでしょう。これまでにも辞書編集者の方に取材をしたことはありますが、この映画についても、また話を伺ってみたいなと思いました。
映画「博士と狂人」は10月16日、全国で公開されます。(公式サイトはこちら)
【平山泉】
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