目次
助詞で変わる印象
②レミも怒っている
③レミだって怒っている
①②③の状況の明らかな違いは何だろうか。①の場面で、怒っているのはレミ一人だ。②では、レミ以外の誰かも怒っている。③では、レミより先に怒っている人がいる。あるいは、レミは普段あまり怒らない人だ。
たった一つの助詞で、文章の印象ががらりと変わる日本語。では、次の三つはどうだろうか。
②黒人の命も大事だ
③黒人の命だって大事だ
いずれも、米国から世界に広がった人種差別抗議デモのスローガン「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)」の日本語訳として用いられているもの。「Black Lives」は「黒人の命」。「Matter」という動詞は、辞書を引くと「(主に疑問・否定文で)重要である」という意味だとある。だから毎日新聞北米特派員は、「Black Lives Matter」を「黒人の命は大事だ」と訳している。一方、共同通信は「黒人の命も大事だ」と訳す。また、「黒人の命だって大事だ」と訳語をあてるメディアもある。メディアによって、文章の印象ががらりと変わっているわけだ。
毎日新聞は「黒人の命は大事だ」
そもそも、なぜMatterという動詞がこのスローガンに採用されたのだろうか。英語圏で育った人に聞くと、MatterはImportantなどより控えめな表現の動詞で、だからこそ最も切迫感を与えるという。辞書にはMatterが主に疑問・否定文で使われるとあったが、私は「大した」という日本語を思い浮かべた。「大した」も後ろに打ち消しの表現を伴って使う言葉だ。誰かに「大したことないよ」と言われた時にとっさに出る、「大したことあるよ!」というセリフ。この逆説的な使われ方が、「Black Lives Matter」におけるMatterのニュアンスに近いのではないかと思う。では、②黒人の命も大事だ③黒人の命だって大事だ――という訳が生まれるのはなぜなのか?
訳した人はこう考えたのだろう。抗議デモの参加者は、「Only Black Lives Matter」とは言っていない。つまり、黒人の命だけを特別に大事にしてくれと言っているわけではなく、白人や他の人の命と同様に、黒人の命「も」等しく価値を持つことを求めているのだ、と。実際、デモの現場では「Just like White Lives Matter, Black Lives Matter, too!」と声を上げる人もいるようで、「も」「だって」というニュアンスを与えるのは納得がいく。
しかし、ここで考えなければならないのは、白人至上主義者がこのデモに対抗して、「All Lives Matter」というスローガンを使っていることだ。「すべての命が大事」と一見、よいことを言っているように見えるが、「みんな大事なんだから、黒人の命だけ掲げるのは正当じゃないぞ」と、この運動を否定する目的で使われている。論点をすり替えて、黒人差別の社会構造を変えるという運動の目的から目をそらそうとしている点で、ゆがんでいると言える。このことを踏まえて、毎日新聞は「Black Lives Matter」を「黒人の命は大事だ」と、余剰のニュアンスを排して訳すことにしているのだ。
2013年に生まれた「BLM」
「Black Lives Matter」という言葉が毎日新聞に初めて登場したのは2016年8月7日。米中西部イリノイ州シカゴで起きた警官による黒人男性射殺事件を報じた記事の中で、「黒人を差別的に扱う警察や、司法制度の改革を求める社会運動『ブラック・ライブズ・マター(BLM)』への支持が全米に拡大した」と出てきた。この記事には、「警官の黒人に対する暴力は至る所で起きているが、かつては地域内の問題として受け止められていた。しかし、映像がインターネットで拡散する現代では、怒りは容易に全米に拡大する」ともある。書かれたのは、4年前の夏。20年現在でないことに驚く。
さらにさかのぼれば、BLM運動の始まりとされるのは、12年2月に起こった17歳の黒人少年射殺事件だ。翌年に加害者側が無罪となったことで全米各地に抗議デモが広がり、その際に「BLM」のスローガンが生まれたという。ただ、このことを報じた毎日新聞の記事にはこの言葉は出てこない。もっと言えば、12年2月26日に起きた黒人少年射殺事件を、毎日新聞が最初に報じたのは1カ月後の3月26日。記事の書き出しはこうだ。「米南部フロリダ州で2月末、黒人少年(17)を射殺した自警団の男性(28)が『正当防衛』として逮捕されなかった事件があり、抗議する集会が開かれた。インターネット上では『警察の対応は人種差別ではないか』と批判する声が高まっており……」
16年の記事の指摘がこだまする。「黒人に対する暴力は至る所で起き、地域内の問題と受け止められていた」。つまり、「よくある事件」だったから一報は紙面に載らなかった。しかしネット上で抗議の声が高まり、集会も開かれるようになって1カ月後、事態を重く見た司法省とFBIが捜査を開始。ここまできてようやくコトの大きさにみんなが(日本の新聞も)気づいた、というわけだ。
そのまま通じるぐらいに
時は過ぎて、今年5月。米中西部ミネソタ州で白人警官による黒人男性暴行死事件が起き、「BLM」というスローガンは紙面に躍るようになった。事件はやはり、撮影された動画がネットで拡散されたことで社会問題になった。毎日新聞でも連日、「Black Lives Matter」というスローガンとともに事件が大きく扱われ、「BLM」は日本での抗議デモでも連呼されるまでになった。そして今年6月21日。毎日新聞スポーツ面に、ついにこんな見出しが現れた。
「NBA再開よりも… ブラック・ライブズ・マター」
米プロバスケットボールNBAの選手が、リーグの試合を再開したらBLM運動の勢いをそぐと訴えているという記事。この見出しがついた時、その紙面を校閲しながら、深い感慨を覚えた。
校閲記者は、見出しが妥当かどうかもチェックする。紙面を目にした読者が、「あのことだな」と分かると判断できないと、この見出しを通すことはできない。しかし私は、通していい、と思った。そしてそれは同時に、13年に「BLM」という言葉が生まれてから7年を経て、この言葉が日本である一定の地位を得たということだ。
「#MeToo」運動でもそうだったが、言葉が浸透した時、意識は確かに変わる。「黒人の命は」「黒人の命も」という助詞のニュアンスに引っかかる必要もなくなるくらい、このスローガンが当たり前に使われるようになってほしい。そしてその先に、「かつて使われた」と冠辞がつくように、BLMが過去の歴史となればいい。
【湯浅悠紀】