目次
教科書は80年代半ば以降「侵食」
何十年も前だが、小学校の「移動教室」で神奈川県の三浦半島に行ったことがあった。海岸の地層を見学するため、その事前学習だかで「浸食」という言葉を習った。その後の中高生時代も「海岸浸食」「浸食作用」といった言葉を目にしていたと思う。
校閲の仕事を始めてからは「浸食」「侵食」の書き分けも覚えた。毎日新聞用語集には「侵食〔おかし食いこむ〕領土を侵食」「浸食〔水がしみ込んで損なう〕河川の浸食、浸食作用」とある。普段の生活で「領土を侵食」「他人の領域を侵食」といった言い方はしないけれど、使い分けとして違和感なく仕事をしていた。
ところがある時、原稿の中で海岸について「侵食」という文字が出てきて当然のように直そうと調べていると、役所の資料には「侵食」ばかり何カ所も出てくる。その原稿は出稿部に説明して「浸食」としたのだが、その後、学会などで「侵食」が使われていると知った。
「しんしょく」は水によるもの以外に風によるものなどもあるのでさんずいの「浸」は使いにくいからだろうかとも考えたが、個人的には風による場合でも比喩として浸食と書いてもよいように思う。しかし、各教科書も「侵食」を使っていると聞き、困ってしまったのだった。
各教科書会社にも問い合わせがあるようで、複数のサイトに詳しい説明があった。それを読むと、教科書は文部省(現文部科学省)の「学術用語集」(1984年)に従って「侵食」にしたらしい。その学術用語集の影響を受ける前は「浸食」を使う教科書が多かったのだろう。
辞書では「浸食」が優勢
手元の国語辞典をいくつか引いたところ、「海岸しんしょく」「しんしょく作用」に当たる方は
——と「浸食」が目につく(いずれも当記事の公開時点の最新版)。たいがい「侵食とも書く」のような注記もある。
元々は「浸蝕」だったか
漢和辞典はどうか。大漢和辞典を引いてみると
浸蝕 水の漸次にをかして害ふこと。
侵蝕 ①をかし虫ばむ。虫が木の葉などを段々食ひ尽すやうに、次第に人の領分にくひこむこと。蚕食。②ひそかに費消する。使ひ込む。
——と書かれている。現在の常用漢字(81年告示)の前身、当用漢字(46年告示)の時代に国語審議会(現文化審議会国語分科会)の「同音の漢字による書きかえ」(56年報告)で「浸蝕→浸食」「侵蝕→侵食」が示され、今の辞書はたいがい「蝕」「食」を併記している。
漢和辞典編集者の円満字二郎さんに伺うと「学術用語集で『侵食』に統一されたのは、元をたどっていけば漢字制限の発想の影響ではないでしょうか」。漢字制限前、つまり当用漢字以前の辞書では、例えば大日本国語辞典(16年)でも、
侵蝕 次第におかしそこなふこと。
浸蝕 水のしみこみて、次第にそこなふこと。
——となっており、「浸蝕谷」「浸蝕作用」「浸蝕山岳」「浸蝕台地」も載っている。
「おそらくは、問題の『しんしょく』は元々『浸蝕』と書く方がオーソドックスだったものと思われ、現在『浸食』と書いても誤用とは言えないでしょう」と円満字さん。
「侵食」「浸食」それぞれの理由
ところが、広辞苑を見ると
6版の
【侵食・侵蝕】①漸次におかし、そこなうこと。②浸食に同じ。
【浸食・浸蝕】〔地〕流水・氷河・波浪・風などが地表面を掘り削る作用。
——という書き方が、2018年改訂の7版で
【侵食・侵蝕】①漸次におかし、そこなうこと。②〔地〕流水・氷河・波浪・風などが地表面を掘り削る作用。
【浸食・浸蝕】侵食2に同じ。
——と改められている。
理由を岩波書店辞典編集部に伺うと、「学術用語集などの表記に合わせました。専門用語については、その分野で一般的な表記を主見出しとする方向にあります」ということだった。
広辞苑は国語辞典ではあるが百科事典の役割も持っており、そうしたところが専門用語の扱いに表れているのかもしれない。ほかにも、例えば「口腔」の読み方は本来「こうこう」なので、広辞苑も「こうこう」の項目に解説文があるのだが、「医学では本来は俗な読みである『こうくう』に統一されているので、『口腔外科』は、『こうこう』でなく参照見出しの『こうくう』の子項目になっています。その分野で定着していれば、後追いで従いますし、従わざるをえません」という考え方なのだそうだ。
同じ岩波書店の小型辞典、岩波国語辞典は以下のように「浸食」をとっている。
【侵食・侵蝕】次第におかして行って、くい込むこと。
【浸食・浸蝕】(雨水・流水などの)水がしみ込んで物をそこなうこと。
岩波国語辞典の編者の一人である柏野和佳子・国立国語研究所准教授に伺うと、「一般での使われ方を見ると、浸食は水によるものにもよらないものにも使われているのですが、岩波国語辞典の語釈では、『侵食』のうちの水によるものを特に『浸食』という、という上位下位の関係が読み取れます。その立場では、学術用語集では、上位語での統一を採用した、と理解できます。『浸』の字には『水がしみ込んで』という意味があり、『食』はもともと『蝕』で、こちらに『少しずつ端からおかす』という意味があるため、『(雨水・流水などの)水がしみ込む』場合は『浸食』と言ってもよく、学術用語以外では常に『侵食』と言い換える必要はないのでは」という意見だった。
また、「高校教科書密着型」をうたう三省堂現代新国語辞典は、多くの小型辞書とは違い、「侵食」に「②〔地学で〕自然の現象として、陸地などがけずられること。〔一般には「浸食」とも書く〕」と書かれている。
「しんしょく」一つにも辞書の個性が見えるようで、興味深い。
新聞と教科書の表記が異なる現状
とはいえ、面白がってばかりもいられないのが新聞の表記だ。教科書が「海岸侵食」のように「侵食」を使っていれば、「海岸浸食」では違和感を持つ人が増えるだろう。違和感なくわかりやすく読んでもらえるようにすることが新聞には大切だ。
円満字さんからは「地学の用語集が『侵食』に決めているというのは、動かせないですよね。となると、地学的な文脈では『侵食』を使うが、その他の文脈では『浸食』を用いることもある——という程度にしてはどうでしょう」というアドバイスもいただいた。
しかし、新聞に載る旅の文章に「この素晴らしい景観は海岸がしんしょくされて……」のように出てきたとき、この文脈は学問的ではないが、「海岸しんしょく」はいかにも地学用語だ——などと迷いそうだ。こういった場合でも「侵食」で賄えるとしたら、「浸食」はもう要らないことになってしまうという寂しさも覚える。
当面、新聞としては「浸食」を使うことになるが、今後、見直しを検討しなければならないこともあるかもしれない。その場合でも、「浸食」が誤りということにはならない。新聞として表記を決めなければならないことと、言葉はどちらか一方だけが正しいというものではないということ、その間で悩んでいる。
【平山泉】