死の「ふち」といった場合にどう書くかについて伺いました。
目次
8割が「淵」を選択
死の「ふち」から生還――どう書くのがふさわしいでしょう。 |
ふち 5.6% |
淵 80.2% |
縁 14.2% |
「深み」を表す「淵」を選んだ人が8割と大多数。「へり」を表す「縁」を選んだ人は7人に1人程度でした。
実態に即した改訂と言えそう
新聞・通信社の用語集でも「ふち」の使い分け例で「死の縁」を採用しているものは一つもありません。かつては常用漢字表に入っていない「淵」は使わず、かな書きとする社が多数派でしたが、近年は表外字であっても「死の淵」とする社が多くなっています。毎日新聞用語集も今年の改訂で、かな書きから「淵」の使用に踏み切りましたが、アンケートの結果から見るに、世間の認識に即した変化であると言えそうです。
国語辞典による「淵」の説明は「流れの水がよどんで深くなった所。←→瀬。(用例略)比喩的に、浮かび上がりにくい境遇・心境。『絶望の―に沈む』」(岩波国語辞典7新版)というぐらいが標準的なものでしょうか。比喩の用例としては「悲しみの淵」と「絶望の淵」が大人気。これらは誰にとっても、一度は沈んだことのある境遇なのかと思われます。「死の淵」も、容易に抜けられない、死にひんした状態の表現として理解を得やすいのでしょう。
記事の例では「淵」と言えそうにないものも
ただし、実際の用例を見ていると「これは『淵』でよいのだろうか」と思うこともあります。毎日新聞の記事データベースを、「淵」が採用される今年4月以前について「死のふち」で検索してみると、以下のような例が出てきます。「死のふちをさまよう」「死のふちにいる人たち」「患者を死のふちから救い出す」「死のふちに立たされた生徒たち」「死のふちをのぞく怖さ」「死のふちからよみがえらせる」――。この中に一つ、毛色の異なるものが交じっていると見えるのですが、いかがですか?
正解は――と言ってよいのか分かりませんが、ともかく気になるのは「死のふちに立たされた」です。「淵」は辞書の説明にあるように「水がよどんで深くなった所」で、容易に底も見通せないような、一度沈んだら浮かび上がれるかも分からないところのこと。だからこそ比喩として機能するはずですが、「立たされた」では足が着いてしまうのかと変な想像が働きます。
「死のふちに立たされた生徒たち」という用例は米国の乱射事件の記事から拾ったもので、この場合は「死の瀬戸際」ぐらいの意味で使っていると考えられます。「崖っ縁」を辞書で引くと「崖っ縁に立たされる」という用例が出てきますが、命の危険すれすれの地点に立たされたという趣旨で使うならば、漢字表記は「死の縁に立たされた」になってしまうのではないでしょうか。
「生死のふち」はどうする
似たような例に「生死のふち」があります。「事故で生死のふちをさまよった」のような使い方が典型的。この「ふち」は明らかに「境界」を表しており、あえて漢字を使用するなら「縁」を使うことになるでしょう。しかし「死の淵」と紛らわしいことは否定できません。
用語集改訂で「死の淵」を使うことになったのはよいのですが、「死の淵に立たされる」や「生死の淵」のような表現が出てきた場合にどうするか。漢字表記をやめてかな書きとするか、あるいは言い回し自体を差し止めるかなど見極めが必要と考えられ、改めて用語集で注意を促す必要があるかもしれません。
(2019年06月11日)
今回も2019年版の毎日新聞用語集から。新たに使えるようにした文字に「淵」(読みは「ふち」のみで使用)があります。常用漢字表に含まれない表外字ですが、人名などでよく使われており認知度が高く、「縁」との使い分けにも意味があるとして使用することにしました。
用語集は「ふち」の使い分けで、「淵」について「瀬の対語。深み、苦境」とします。「瀬」は川や海などの浅いところ。「淵」は逆に深いところです。ただし、現在では文字通りの意味よりも、比喩的な意味で使われることが多いでしょう。用例は「悲しみの淵に沈む」というものと、今回の質問に取り上げた「死の淵」を挙げています。
高見順に「死の淵より」という詩集があるように慣用は「淵」で、用語集もそれに従ったものですが、こう書くともう浮かび上がれない深みに沈むような気もして、「死の淵からの生還」はあり得ないかも……。「縁」には「崖っ縁」のような「境界の部分」という意味もあるので、こちらの方が適切と感じる人もあるかもしれません。
もっとも、日本国語大辞典には「死の縁(えん)」という言葉もあるため、「縁」を使うのは難しいかもしれません。ならばいっそ平仮名の方がよい? 皆さんはどう感じるでしょうか。
(2019年05月23日)