サッカー・ワールドカップも大詰め。蹴ることにちなんだ話題ですが、「蹴れる」は「ら抜き」でしょうか。「蹴られる」の方がよいでしょうか。また、SNSで「これる」の言葉遣いがあったとして、それを引用するとき新聞は「ら」を入れるべきでしょうか。

1995年12月9日毎日新聞より
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テレビ字幕で「ら入れ」に直している
テレビ局「ら」を書き入れる人が居る
「仲畑流万能川柳」に6月9日載った「筍の子」さんの川柳です。
句意はおわかりですよね? 私なりに解説すると、テレビ画面に出ている人が「食べれる」などの「ら抜き」言葉をしゃべっているのに、字幕では「食べられる」と表示されるという趣旨でしょう。
これはたまたまそうなったのではなく、各テレビ局が字幕作成の決まりとして、話し手の「ら抜き」はそのまま記すのではなく「ら」を入れていると思われます。実際、字幕の校正者と話したときも「ら抜きは認めていない」と言っていました。
毎日新聞でも基本的に、話者が「ら抜き」を使っていても記事にするときは「ら」を入れています。話し言葉としてはもはや誰でも使うような気さえする「ら抜き」ですが、書き言葉としては明確に規範的な言葉遣いをすべきだと考えるからです。
30年以上前ですが、1995年当時の国語審議会報告でも「共通語においては誤りとされ、少なくとも新聞等ではほとんど用いられていない」とされていました。
ところが、書き言葉で「ら抜き」が使われていると、新聞に引用するさいどうすればよいでしょうか。昨今、スポーツ選手や芸能人がSNSで発信した文章が引用される記事が増えています。
「これた」を引用するときどうする?
サッカー・ワールドカップはいよいよ大詰めですが、これは開幕直前の話。ある日本の選手がSNSに「一緒に成長してこれたことを誇りに思います」という投稿をしました。それを毎日新聞ニュースサイトではそのまま引用しました。
「これた」は一般的に「ら抜き」とされます。しかし文化庁の2020年度「国語に関する世論調査」では、正しいとされる「来られた」よりも「来れた」がわずかに上回った結果となっています。ただし他の質問では「食べられない」が「食べれない」の2倍近くになるなど「ら抜き」が全体的に許容されているわけではありません。
しかし規範的なはずの「ら入れ」には弱点があります。日本語の「れる・られる」という助動詞には受け身・可能・尊敬・自発など意味が多様で、「来られますか」だと可能なのか尊敬なのか分かりにくいという点です。だから可能の意味では「来れる」、尊敬の意味では「来られる」と使い分ける人が多くなっているのでしょう。
三省堂国語辞典は8版で「来る」の可能動詞として「来られる」「来れる」の両方を掲げています。そして
「来れる」の形は、明治時代から例がある。本来は俗用だが、カ変動詞に特有の可能形と見ることもできる。
と注釈があります。その説に従うなら、「これる」をそのまま引用しても問題ないという判断もありえます。ただ、俗用や新語を大幅に取り入れる特徴がある辞書ということに注意する必要があります。
SNSでは無自覚に使われる俗用をそのまま引用すると、結果的に日本語の変化が書き言葉にも及んでいるという記録になります。価値判断よりも日本語の変化を記録することに重点を置く学者や辞書などにとっては用例を増やすことになるのですが、新聞社としてはそれでいいか。
毎日小学生新聞の原稿でもくだんの「一緒に成長してこれたことを誇りに思います」が出てきました。私はそのまま載せるのは教育上いかがなものかと思い、編集者に相談して「こられた」に直しました。
本田圭佑さんの解説では
SNSでの投稿は「書き言葉」ならぬ「打ち言葉」と言われることがあります。書き言葉と話し言葉の中間という位置づけでしょう。話した言葉を字幕や記事でそのまま記すわけではないように、SNSの発信をそのまま記事にするかどうかは慎重な判断が必要と思います。
余談ですが、今回のワールドカップ中継では本田圭佑さんによる奔放な言葉遣いの解説が話題になりました。当然「見れた」などのら抜き言葉を使っていると思いきや、1次リーグ第3戦、スウェーデン戦直後のコメントでは、「最後まで見られた」と、ちゃんと「ら」を入れていました。
ただその直前、引き分けでも決勝トーナメントに行けることから「おもんない試合になりがち」と言っていました。
「おもんない」。私は初耳でした。「面白くない」→「おもろうない」→「おもんない」という関西弁の変化らしいということは想像できますが、これをそのまま文字化すべきか、判断が難しいところです。
スポニチアネックスでは「言い方悪いと、おもんない試合になりがちなんで」と書いていましたが、「おもんない(面白くない)」とカッコで補うなどの方がいいような気がしました。
「こうしちゃおれん」は正しいか
「ら抜き」に話を戻すと、「ら抜き言葉殺人事件」という島田荘司さんの推理小説が1991年に出ています。あくまでも小説の中の作家が書いたエッセーという設定ですが、「ら抜き」を使ってもいいじゃないか、そんなことに目くじらを立てるなという主張の流れで、こんな部分があります。
急いで駈けつけなくてはいけないという時、次のように叫ぶであろう。
「こうしちゃおれん!」
これも正しくは「こうちゃおられん!」と叫ぶのが用法上正解だが、このように口走った人間、または作品中で口走らせた作家ははたして責められるものであろうか。
これに対し即座に「いや、それは『ら抜き』ではない」という反論もしくはフォローが出そうですが、書かれていないので、島田さんがどういうつもりでこの例を出したのかは判然としません。おそらく作中の作家の認識不足を控えめに暗示するために書いているのでしょう。

そもそも「ら抜き」とは上一段・下一段活用の動詞が対象なのですが、「おる」は「おらず・おります・おる・おるとき・おれば」などと活用する五段動詞であり、ら抜き言葉の対象ではありません。「おれる」は「行ける」などと同じく「可能動詞」です。一方、可能の意味の助動詞を入れて「おられる」と言ってもよく、どちらも文法的には正しいのです。
「蹴れる」で恥ずかしい失敗
しかし、かく言う私自身も混乱することがあります。相当前ですが、「蹴れる」を「ら抜き」と誤解して「蹴られる」と直しを出したことがあるのです。「蹴る」は文語では「け・け・ける・ける・けれ・けよ」と活用する下一段の動詞ですが、口語ではちょっと考えれば「けらない・けります……」と活用するラ行五段動詞と分かったはず。だから「蹴れる」という可能動詞もありなのでした。
他の人が気づいて直しが取り消されたのでよかったものの、頭の中を自分で蹴れれば蹴りたい気分になりました。いやまあ、「蹴れる」も「蹴られる」も、自分ではまず使いませんけど。「どんな位置からも蹴れる」と書いて「あれ? これ『ら抜き』だっけ?」と戸惑う記者がいるとすると、「蹴れる」で問題ないですができれば「どんな位置からも蹴ることができる」と書いてほしいとアドバイスしたいと思うのです。
【岩佐義樹】
