今月27日のオンラインイベント「ことば茶話」、ゲストは円満字二郎さんです。円満字さんと毎日新聞校閲とのおつきあいは15年前から。円満字さんの文章には若々しさが満ちていますが、自分を「ぼく」と記すことにもその一端が表れています
今月27日にオンラインイベント「ことば茶話」にフリーの漢和辞典編集者にしてライター、円満字二郎さんをお迎えします。
目次
太宰治の四字熟語がきっかけ
円満字さんと毎日新聞の校閲とのかかわりは2009年12月の毎日新聞校閲グループの部報「校閲月報」の「円満字二郎さんに聞く」から始まりました。今年で15年になります。インタビュー記事の聞き手とまとめは平山泉と私、岩佐義樹が担当しました。
その前、私が当時担当していた毎日新聞の漢字の読みクイズに、当時生誕100年だった太宰治の作品から取り上げたいと思い、書店をうろうろしていると「太宰治の四字熟語辞典」という本が目に飛び込んできました。
今でこそ「にゃんこ四字熟語辞典」(西川清史著、飛鳥新社、22年)のように特定のカラーをまとった四字熟語辞典が書店の一部をにぎわすようになりましたが、そのはしりはこの本だったかもしれません。そのあとがきに、三省堂国語辞書出版部の吉村三恵子さんへの感謝の言葉があり、吉村さんとは「校閲月報」での辞書についての座談会にお招きした縁があったので、これは奇遇と、円満字さんとの連絡を取り持っていただきました。
ちなみに、この本の中から毎日新聞の漢字クイズに選んだのが「含羞旋風」。これは「斜陽」に出てくる、太宰治の創作四字熟語です。太宰治は「含羞の人」といわれますが、恥ずかしがり屋はいくらだっています。「旋風」をつけるところが太宰のきりきり舞いするような自意識を表していると思って選びました。そして、「太宰治にはまるのは若者のはしかのようなもの」といわれた太宰を四字熟語辞典のテーマに据えた、円満字という人物への興味がいや増しました。
「僕」ではなく「ぼく」を使用
さて、円満字さんへのインタビューは常用漢字や人名用漢字など漢字との付き合い方についてたっぷり語っていただきました。書き起こし原稿をご本人にチェックしていただいたとき、「僕」を「ぼく」に直すというものがありました。
「ぼく」という表記は円満字さんのこだわりだそうで、確かにそれ以前の著書でも使われていました。円満字さんの文体は若々しさに満ちているのですが、「私」でも「僕」でもなく「ぼく」と書くところにそれが端的に表れています。
「自称詞〈僕〉の歴史」(友田健太郎著、河出新書)によると、江戸時代までの文章で「僕」が「ぼく」「ボク」といった仮名で書かれることはなかったそうです。主に儒教の素養を土台とした「僕」に対し、平仮名の「ぼく」は軽く、悪くいえば青臭さ、幼稚っぽさが伴います。漢字の歴史やイメージを知り尽くした円満字さんがあえて「ぼく」を使うことに、漢字の森に埋没しないぞという円満字さんの心意気を感じます。
漢和辞典に青春を持ち込んだ
「漢和辞典に訊け!」(ちくま新書、08年)のあとがきは、出版社を辞めるかどうかの人生の転機について書かれています。このとき40歳の円満字さんですが、文章からは青春の輝きを感じます。この本のことを「ぼくのささやかな青春の記念碑」と書いているくらいですから、「ぼく」という言葉が若さの象徴のように使われているのです。
漢和辞典を主人公にした本を書いてみたい。
勤めを辞めれば、自分の考えに基づいて漢和辞典を編集するチャンスを、永遠に逃してしまうかもしれない。しかしその代わり、漢和辞典を主人公にした物語を語る資格を、手にすることができるのではないだろうか。
そう考えたとき、悩みに悩んでいたぼくは、辞表を書く方へと、そっと背中を押されたような気がした。そういう意味では、ぼくは本書を書くために会社を辞めたと言っても、過言ではないのである。四〇歳になってしまった現在から振り返ると、出版社で働いた一六年一一か月は、遅ればせながらの青春時代だった。だから、本書は、ぼくのささやかな青春の記念碑でもある。
この本は漢和辞典という抹香臭い世界に青春の香気を持ち込んだ、おそらく空前の漢和辞典のガイドです。
専門用語を使わない読みやすさも
同書を出した後、「漢和辞典」という名の本ではないものの、従来の漢和辞典のイメージを覆す漢字「ときあかし」シリーズを研究社から出しています。
「漢字ときあかし辞典」(2012年)
「部首ときあかし辞典」(13年)
「漢字の使い分けときあかし辞典」(16年)
「四字熟語ときあかし辞典」(18年)
一方で、漢字についてのさまざまなテーマの著書もコンスタントに出版し続けています。ちなみに、その「まえがき」「あとがき」から、自称の言葉を抜き出してみましょう。
「人名用漢字の戦後史」(岩波書店、2005年)…「私」
「昭和を騒がせた漢字たち――当用漢字の事件簿」(吉川弘文館、07年)…「ぼく」
「太宰治の四字熟語辞典」(三省堂、09年)…「ぼく」
「常用漢字の事件簿」(NHK出版生活人新書、10年)…「ぼく」
「数になりたかった皇帝――漢字と数の物語」(岩波書店、10年)…「ぼく」
「政治家はなぜ『粛々』を好むのか――漢字の擬態語あれこれ」(新潮選書、11年)…「ぼく」
「ひねくれ古典『列子』を読む」(新潮選書、14年)…「私」
「漢和辞典的に申しますと。」(文春文庫、17年)…「私」
「知るほどに深くなる漢字のツボ」(青春出版社、17年)…「私」
「雨かんむり漢字読本」(草思社、18年)…「ぼく」
「漢字の植物苑」(岩波書店、20年)…「私」
「難読漢字の奥義書」(草思社、21年)…「私」
「漢字が日本語になるまで」(ちくまQブックス、22年)…「ぼく」
「漢字の動物苑」(岩波書店、23年)…「私」
「ぼく」については次第に減ってきていますが、内容に応じて「私」と使い分けているのでしょうか。ただし「私」となっても大人びた感じはあまりせず、相変わらず若々しさと稚気に満ちあふれています。
今も毎日新聞「毎日ことば」で漢字についてのミニ解説を書き続けている私にとって、円満字さんの膨大なお仕事は最大のネタ元になっています。そして「漢字ときあかし辞典」で「呉音」という専門用語を使わず、全て「奈良時代以前からある古い読み方」とするなど、分かりやすさと親しみやすさを旨とする文章をお手本にしたいと思っています。
【岩佐義樹】