大みそかの鐘の音とひっかけたわけではありませんが、今回は小学生が必ず習う新美南吉の童話「ごんぎつね」について。原文に「家」とあるのが教科書では「うち」となっています。「いえ」と読ませなくてよかったのでしょうか。また、ごんは最後に本当に死んだのでしょうか。
2023年は新美南吉生誕110年、没後80年でした。大みそかの鐘の音とひっかけたわけではありませんが、今回は代表作「ごんぎつね」について考えます。
最近も、チャットGPTに「ごんぎつね」の感想文を書かせてその文章を小学生に読ませるという小学校の試みが毎日新聞に載っていました。その感想文とは「この本は不思議な冒険と友情のお話です。ごんぎつねは、かわいいしっぽを持つ不思議なキツネさんです」とのことです。生成AI(人工知能)の読解力は確かに「人間離れ」しています。
目次
全ての小学教科書が採用
私の小学4年の娘の教科書にも「ごんぎつね」が載っていました。「なぜ『ごんぎつね』は定番教材になったのか-国語教師のための『ごんぎつね』入門-」(鶴田清司著、明治図書)によると、1980年版から小学校の国語教科書全てに採用されるようになったといいます。こんな童話は他にないそうです。
私はその前の70年代に「ごんぎつね」を学びました。実生活に縁のない言葉なのに「びく」(魚籠)という語を覚えて忘れられないので、小学校の国語教材の影響力はすごいなあと改めて感じます。
さて、名作童話といえど教科書に載るとなると、表記に手を入れているようです。過去には「兵十」の読みが「ひょうじゅう」なのに「へいじゅう」になったり、「小ぎつね」が「子ぎつね」と誤ったりした教科書もあったそうですが、今はさすがにそんな重大な改変はありません。が、校閲として気になる異同はあります。
最後のシーンを「ひろがる言葉 小学国語 四下」(教育出版)から引用しましょう。
そして、足音をしのばせて近よって、今 戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。
兵十はかけよってきました。うちの中を見ると、土間にくりがかためて置いてあるのが、目につきました。
「おや。」
と、兵十は、びっくりして、ごんに目を落としました。
「ごん、おまえだったのか。いつも、くりをくれたのは。」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
兵十は火縄じゅうをばたりと、取り落としました。青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。
「うちの中」は「家の中」だった
小学4年生の教科書ですから、
~くれたのは。」
などの体裁が新聞などの書き方と違っているのは想定内ですが、原文ではどうなっているのでしょう。とりあえず青空文庫にもある岩波文庫版「新美南吉童話集」の「ごん狐」を見ます。
そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。
「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。
「ごん、お前(まい)だったのか。いつも栗をくれたのは」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
カギ括弧を閉じる直前に「。」はないし、「くり」は「栗」と漢字です。他にもいろいろ違いがあるのですが、私が注目したのは「家の中を見ると土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました」の「家」が教科書で「うち」となっていることです。
「家」をどう読むか。これは、朗読のボランティアをされている方もそうでしょうが、新聞校閲としても悩みどころです。常用漢字表では「家」に「うち」の読みがないので、「うち」と読ませたいときは漢字を平仮名に直さなければならないからです。
「いえ」と「うち」はどう違うのか
例えば、不要不急の外出を控えることが日常だったコロナ全盛期に「おうち時間」という言葉が盛んに用いられました。これは、固有名詞などの事情がなければ「お家時間」と新聞で書かないことになっています。
でも「お家時間」など「家=うち」と読むことがはっきりしている場合なら迷わず平仮名にできるのですが、どう読むのが正解か分かりにくいケースが少なくありません。「ごんぎつね」のラストシーンも、「家」を「いえ」と読んでもさほど問題ないと思われるので、教科書が「うち」と改変しているのはどういう根拠に基づくのか気になりました。
最も信頼の置けるとされる「校定新美南吉全集」3巻(大日本図書)ではどうなっているでしょう。
これはほぼ総ルビでした。問題のシーンの「家」には「うち」と読み仮名があります。教科書はこの底本を基に「うち」と表記したのだと、いったん得心がいきました。
しかし、実は新美南吉自筆の草稿「権狐」には「家」のルビがありません。この読み仮名は発表時に編集者が勝手に振ったのかもしれません。しかも、作者自身の校正は経ていないらしいのです。
そもそも家屋の意味の「うち」と「いえ」はどう違うのでしょう。
日本国語大辞典の「いえ【家】」の語誌によると、
現代では「家屋」を意味するイエは多く東北地方と近畿以西で用いられており、その中間の関東・中部ではウチの使用が多い。
ということです。新美南吉は愛知県生まれですから「うち」と読ませる一つの根拠にはなると納得しました。また、著者校正ではないにしても、南吉は活字になった現物を見ているはずですから、「いや、この家は『うち』ではなく『いえ』なんだ」と意思表示がなかった以上、「うち」が確からしいと認めてよいでしょう。
ごんは死んだと書かれていない
ところで、「家」の読み方よりももっと根本的な疑問に初めて気づきました。
ごんはラストで果たして死んだのか?ということです。
新美南吉はこのシーンで、ごんが死んだとは一言も書いていません。銃弾が命中したとも書かれていません。しかも「うなずきました」とあるので、少なくともこの時点では生きていたことが明示されています。もしかしたら、ごんが倒れたのは単にびっくりして思わず死んだふりをしただけではないか?
それなのになぜか、ごんは死んだことにされていて、今まで私も信じて疑いませんでした。これは常識を覆す発見をしたぞと一瞬思いましたが、もちろんそれに気づいたのは私だけではありません。
「なぜ『ごんぎつね』は定番教材になったのか」の本には、小学4年生の感想や「その後」を想像した作文が紹介され「子どもたちのなかには、兵十が動物病院へ連れて行ったとか、応急処置をしたら治ったといった後日談を書いている子どもが数人いた」そうです。
しかし筆者は「ごんは致命傷を負ったと読むのが大前提である」と断言します。私にはその根拠がよく分かりませんでした。
開智国際大学紀要にある遠藤真司さんの「小学校国語科教材の読み方」という論文がインターネットで読めます。「ごんは死んだのか」という私の疑問と同じことが書かれていました。授業で「文中のどこにも死んだという言葉がないので、死んだとは言えない。僕は生きていると思う」と発言した子がいて、論争になったといいます。
学生と教員にアンケートしたところ、「死んでない」または「死んだとは限らない」という回答が38%だったそうです。この多さに遠藤さんは「愕然(がくぜん)」としたと記します。そして、新聞などの説明文では「文章中に何の言葉が書いてあるかが極めて大事」だけれど、文学作品では「死んだ」と書いていないことを死んだと想像させることこそ「文学の文学たる所以(ゆえん)」と批判します。
「ごんぎつね」の世界観に合わせて、死んだ、もしくはこのまま死んでいくと読まなければならない。そう読むことが、 「ごんぎつね」の正しい読み方であり、解釈であり、正しい想像である。教師としても、子どもたちにそのような読みにさせていく指導をしていかなければならない。この作品の最後に「こうしてごんは死んでいきました」などの記述があるかどうかが問題となってくるのではないのである。文学作品は、書かれたことをもとに書かれていないものまでをも想像するのである。
しかし、文学が行間を読ませるものというのは理解しますが、なぜ「正しさ」を持ち出してごんを殺したがるのか、私は教育者ではないのでよく分かりません。もし私が先生なら、兵十とごんの和解へと至る明るい未来を空想する子供の優しさを伸ばしたいと思います。
現実は甘くなく、分かり合えないまま毎日たくさんの人が亡くなっている世界ですが――いや、そういう現実があるからこそ、少なくとも架空の世界で悲劇に至らない可能性を追求させてもいいのでは。そういう多様な読み方ができるのが「文学の文学たるゆえん」ではないかと思うのです。
「ジョーは死んだのか」論争にも通じ
とっぴな連想ですが、漫画「あしたのジョー」は主人公、矢吹丈が「真っ白に燃え尽きて」リングサイドで目を閉じて座っているラストのコマがあまりにも有名です。ジョーは死んだ……ようにも見えますが、いや死んでいないと、いまだに論争になります。
私としては、死んだかどうかが問題ではなく「完全燃焼」という状態がこの上なく美しく描かれたラストと思うのですが、だからといって「死んだ」「死んでない」という論争が作品の世界観を損ねるとは思えません。
娘に「最後、ごんは死んだと思う?」と聞くと、ちょっと間を置いて「うなずいたから死んでない」と答えました。この会話は私の誘導尋問だったかもしれませんが、ごんは本当に死んだのかという論争はもっと盛り上がってほしい気がします。
少なくとも子供が「死ななかった」とする素直な解釈を「正しさ」の名の下に「国語力が足りない」などと封殺することがないよう祈っています。
【岩佐義樹】