明治安田生命保険による生まれ年別の「名前ランキング」が発表され、「凛」が女の子の名前人気トップ3の座を維持しました。一方「凜」の字は……。本来同じ字のはずの両者が人名用漢字に選ばれた経緯を調べると、衝撃に次々と見舞われました。
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片岡凜(りん)さんという役者をご存じでしょうか。その名は知らなくても、NHK連続テレビ小説「虎に翼」を見た方なら、後半に登場し主人公の寅子を恐れさせた美少女「美佐江」と言えば、「ああ、あの怖い子」と強烈な印象とともに思い出すのではないでしょうか。
芸達者ぞろいの出演陣を差し置いて「『虎に翼』一番の怪演」「ラスボス」という声も出たとのこと。このコラムはその片岡凜さんについて……ではなく名前の「凜」の字について。ファンの方ごめんなさい。
目次
「凜」と「凛」の違いとは
片岡凜さんはプロフィルによると2003年10月生まれ。本名らしいです。名前の「凜」は1990年に子の名前に使えるようになった字です。
2004年に法務省は「凜」はそのままで「凛」の字も人名用漢字として認めました。この年から女の子の名前に、「凜」ちゃんと「凛」ちゃんが別の名前として戸籍に存在し始めるということになります。片岡さんの「凜」はその字体しか使えなかった最後の年代なのです。
ちなみに「虎に翼」でも前の朝ドラ「ブギウギ」の役名そのままで出演した「菊地凛子」さんは1981年生まれ。まだ「凛」も「凜」も実名として許されなかったので、芸名だと分かりますね。
凜と凛。その違いを意識していなかった方のために念のため説明すると、右下が「禾」か「示」かで形は違いますが、読みも意味も全く同じです。これを「異体字」の関係といいます。
ではどちらが正規の字で、どちらが異体字でしょう。
国語辞典に「凜とした」「凜々しい」などの字はすべて「凜」で載っています。「凛」は「俗字」とする漢和辞典もあり、「凜」の方が正式な字とされています。1990年度のNHK朝ドラの題も「凜凜と」でした。
しかし、事はそう単純ではありません。小池和夫著「異体字の世界」(河出文庫)によるとこうあります。
さて、どちらが正字かというと「凜」なのですが、康熙字典には「凛」しかないのです。これは康熙字典の間違いの一つです。そのため明治以来作られた活字は「凛」が多く、JISにも最初は「凛」しかありませんでした。人名用漢字に「凜」が入って、慌てて第二水準の後ろに追加しましたが、パソコンで「凜」が使えるようになったのはほぼ九五年以降です。二〇〇〇年頃、法務省のホームページの人名用漢字一覧には「凛」が入ってました。
えーっ、康熙字典といえば明治以降の活字の基本になったとされる中国の権威ある字書ですが、それにも間違いがあるって? そこからずっと混乱が続いているということのようです。
男の子の「凛」は漫画の影響?
さて。明治安田生命保険による恒例の「名前ランキング」が14日に発表されました。2024年の女の子の名前のトップ3は「紬」「翠」「凛」でした。トップ3がすべて1文字になるのは初めてということです。
また、50位ながら男の子の名前にも「凛」が登場しました。明治安田生命リリース文書では、漫画・アニメ「ブルーロック」の登場人物「糸師凛」の影響を示唆しています。
私は、いつのことだったか正確な年は忘れましたが2004年以降のある年、同社の名前ランキング発表を受けた毎日新聞の原稿で、リストに「凜」があり「凛」ではないかと指摘したことがありました。
凛と凜は本来同じ字のはずですが、明治安田生命のリストについては別の字としてカウントしていますので、発表の「凛」を「凜」として報道すれば明らかに誤報です。直ったのでよしとする一方で、「凛」ちゃんの登場に複雑な思いを抱きました。
令和生まれは「凛」が人気
2004年からの各年に生まれた「凜」「凛」の順位を見てみましょう。明治安田生命保険ホームページの女の子の歴代10位以内の中から抜き出しました。「―」は11位以下です。
「凛」は令和になった2019年以降で安定してトップ3の位置を占めています。これに対し「凜」はトップ10からはじき出されて7年、2024年だと58位に甘んじています。
つまり、あと十数年くらいで社会にでてくるようになる若いリンさんは「凜」ではなく「凛」が圧倒的に多くなるということです。毎日新聞としては困った事態、というか字体になります。
というのは、人名であっても原則として「凛」の字は「凜」に直しているからです。可能な限り毎日新聞としての原則を説明したうえで本人の意向を確認しますが、生まれた時から「凛」の字を使ってきた当人からすると、自分の字と違うことに違和感を抱く人も多いことが予想されます。個人の名前をねじ曲げるなんて、毎日新聞は何様のつもりだ!と憤る人もいるかもしれません。
手書きでは「別の字であるわけがない」
しかし、私のコラムで引用するのは3回連続になりますが、尾脇秀和著「女の氏名誕生――人名へのこだわりはいかにして生まれたのか」(ちくま新書)にはこうあります。
手書きを基準とする従来の常識からすれば、凜と凛が区別すべき別の字であるわけがない。この文字に含まれている「禾」と「示」が手書きだと同形にもなることは。くずし字では初歩的な常識なのである。だが楷書しか書かない、あるいはあまり手で文字を書かず、活字(フォント)を標準字形だとみる人たちには、その理屈が全く理解できない――。
現代社会には、相容れない漢字認識を持つ人々が併存する。それぞれが“正しさ”を振りかざすことで、そこに深刻な対立も生じている。
手書きの時代には、本人の名前さえ気分によって書体を変えるのが当たり前でした。名前の表記が一部で絶対視されるようになるのはおそらく数十年前からにすぎません。
そもそもどうして人名用漢字に本来同じ字である「凜」と「凛」が入ったのでしょう。
安岡孝一著「新しい常用漢字と人名用漢字――漢字制限の歴史」(三省堂)を開くと衝撃的なことが書いてあります。以下若干間引いて引用しますが、冒頭の平成14年は2002年です。
「凛」が人名用漢字に入ったのはテレビ番組の影響
平成14年8月、佐賀家裁唐津支部は、「凛」を含む出生届を受理するよう、唐津市長に命令しました。子供の名づけに「凛」を使いたい親が、唐津市長を相手取って不服を申し立てていたもので、佐賀家裁唐津支部は、この親の訴えを認めたのです。ところが、この命令に対し唐津市側は、福岡高裁に即時抗告しました。正字の「凜」が人名用漢字として使えるのだから、あえて俗字の「凛」を子供の名づけに認める理由がない、というのが、唐津市側の主張でした。「凛」をめぐる争いは、高等裁判所の抗告審に移ったのです。
平成14年10月、福岡高裁は、佐賀家裁唐津支部の原審判を取り消し、唐津市側の主張を認めました。「凛」は、高等裁判所に却下されたのです。親は「凜」で我慢しろ、というのです。しかし、争いは、これで終わりませんでした。テレビ東京の『ジカダンパン!責任者出てこい!』という番組が、平成14年12月の放送で、人名用漢字の不足を取り上げたのです。スタジオでは、子供の名づけを自由にさせてほしい、と親たちが口々に訴え、名づけに使いたい漢字を掲げていました。その中に、「凛」が含まれていました。この番組は、法務大臣にまで直談判をおこない、平成15年、森山眞弓法務大臣は定例記者会見の席で、人名用漢字を1千字程度に増やすことを明言しました。
平成16年、法制審議会は、人名用漢字の追加候補488字を答申しました。この中に、「凛」も含まれていました。
――テレビ番組の影響で「凛」が人名用漢字に入ったとは。しかも、阿辻哲次著「『名前』の漢字学」(青春出版社)によると、「凛」を要望する人が多くなった背景には、当時の人気テレビドラマに出てくる少女の名前があるといいます。調べるとドラマ「僕と彼女と彼女の生きる道」の女の子の名前を指していると思われます。
「凛」の方がかっこいい?
しかし、もしかしたら当時の環境では、小池さんの著書が示すようにパソコンで「凜」を出すのが難しかったために「凛」を希望する人も多かったのではないでしょうか。そもそも「凛」を要望した人々は、その時点で人名に使える「凜」があり、同じ字ということを知っていたのでしょうか。だから戸籍上は「凜」でも、同じ字なのだから親や自分が普段の自分の名前として「凛」と書いても問題ない、ということを知った上での要望だったのでしょうか。
阿辻さんの同著ではこの疑問に直接答えてくれませんが、次の文に学者としてのため息が聞こえてくるようです。
いまの日本には字体の正俗にこだわる人などほとんどいないのが現実である。
要するに正字や俗字など関係なく、「凜」よりも「凛」の方がかっこいいと考える人が、それなりにたくさんおられたというわけなのだろう。
しかし今は手書きの時代ではないし、法務省も認めた「凛」の字で生まれてきた人はそのままの字で書くべきだ、と思う人もいるでしょう。
そういう方に考えていただきたいのですが、今年のパリ・オリンピックでともえ投げを次々決め最初の金メダルを手にした柔道選手の名前を書けますか?
「角田夏実」
ですね。しかし――出身の千葉県八千代市役所前の横断幕ではこうありました。
おそらく、戸籍上は「角田」の真ん中の縦線が「田」より突き出ているのが本当の字形と思われます。八千代市は広報紙でもそうなっているし、可能な限りそれに忠実に表示しようとしたのでしょう。
しかし、角田選手本人のSNSでは一様に「角」となっています。
この事例から、何をもって人名の正しい表記といえるのかがあいまいになってくるのではないでしょうか。
戸籍法改正でキラキラネームどうなる
「今年の漢字」の書が、私たちが普段使う「金」とは全く違う形だったように、文字の表記が一つしかないという思い込みはやめて、「こんな字体もあったよね」というような大様な見方で接してほしいものです。
ところで、2025年5月の戸籍法改正で、それ以降生まれた子の名前の読みが戸籍に登録されることになりますが、最近では常識では思いつかないようなとっぴな読みが「キラキラネーム」として登場しています。
報道されている例では、音読み、訓読みの一部を当てている=「心愛(ココア)」「桜良(サラ)」はOKだそうです。では例えば1文字の「凛」に「リノ」と付けるという親が現れたら……。こういうケースにいちいち対応しなければならない戸籍担当の方々の心中はいかに。
法律では快刀乱麻を断つごとくすっきりいかない部分だけに、「虎に翼」の片岡凜さんが演じたような気持ち悪さはいつまでも尾を引く、場合によっては「虎の尾を踏む」結果になる予感がします。
【岩佐義樹】